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京都議定書ほんとの基礎知識1(3ページ目)

先月発効した京都議定書。国際社会が一団となってCO2削減に取り組むという画期的な条約です。とはいえ、その全貌を知っている人ははたしてどれだけいるのか…ほんとの基礎知識を頭に叩き込みましょう。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【京都議定書の意義と、そこに横たわる難問】
2ページ目 【国際社会が温暖化対策にとりくみはじめた90年代はじめ】
3ページ目 【京都会議前夜までの、EU・アメリカ・日本の動き】

【京都会議前夜までの、EU・アメリカ・日本の動き】

こちらも要チェック! 政治についての基本知識と基本用語

削減に強気な態度を見せるEUとアメリカの計算

1996年、ジュネーブでCOP2が開かれました。ここではCOP3を京都で開催することの他にはさほど具体的なことは決まりませんでしたが、この後、翌年のCOP3をにらんで、さまざまな駆け引きが行われていきます。

EUは、このころから90年比15%という極めて高い削減基準を表明しましていました。どうしてこんな高い基準を表明することができたのでしょう。

1995年に環境問題に関心の高いスウェーデン・フィンランドがEUに加盟したことは、EUが環境問題解決の先頭に立つ上で大きな意味があったと思われます。

しかしそれだけの理由でEUが高い削減目標を掲げたわけではありません。EU内部に、次のCOP3京都会議で認められるとみられた、共同実施(JI)制度によって、エネルギー効率の悪い東欧を援助し、そこで削減した多くのCO2排出量をEU割り当ての削減排出量分に当てられるという読みがあったことは、見逃せません。

東欧諸国はEUに入りたがっていたので(実際2004年、一気に10カ国がEUに加盟することになるわけですが)、EUからの共同実施の誘いは断らないはずでした。EUの強気の削減目標の裏には、こうした背景があったのです。

クリントン政権のアメリカもまた強気でした。数字は示さないものの、民主党の大きな支持母体となりつつあった環境団体を強く意識し、削減実施を強調し、COP3の成功に向け、削減に消極的だったロシアも説得します。

アメリカの強気もまた、背景がありました。アメリカの息のかかった中南米諸国と共同実施すれば、少々の割り当て削減量も達成できるだろうという読みです。

もっとも、中南米諸国は東欧がEUになびくほどアメリカになびく理由がなかったので、共同実施には反対します。共同実施によってむしろCO2の削減を押し付けられるのを恐れたためです。

この結果、京都会議では妥協の産物としてクリーン開発メカニズム(CDM)が作られることになります。

共同実施とCDMの違いは、えーといろいろあるのですが、共同実施はあくまで西側先進国と旧東側諸国との間で、CDMは先進国と途上国の間で行われるものです。他にもいろいろ違いはあるのですが、詳しくはこのページの下の図を見て下さい。

とにかく共同実施やCDMを行った先進国は、それに見合った排出権を獲得することができ、それを自国の排出権に加算することができるのですね。それを使えば高い排出削減量を課せられても大丈夫、という読みがあったわけです。日本以外は。

COP3議長国日本政府の内部対立

一方、日本は次の議長国となるというのに、今一つ存在感が出せずにいました。理由は、長年の環境庁(現:環境省)と通産省(現:経済産業省)の不仲です。

産業界の利害を代弁した通産省に対し、環境団体の期待を一身に背負う環境庁。今までも環境政策をめぐってもたびたび対立してきた両省庁が、ここでも一歩も引かず、日本の方針を打ち出すことができなかったのです。

通産省は、削減ゼロを主張していました(注意したいのは、これはひとつも削減しないのではなく、1990年と同じ排出量を維持するということで、1997年ベースでいうと削減になる)。その理由にはそれなりの合理性がありました。

つまり、日本は世界一の省エネ国家だ。これ以上省エネはむずかしい。CO2削減コストは他国に比べてかなり高くつく。しかも日本の景気はどん底だ(山一證券が廃業したのも1997年)。経済活動まで締め付けて、CO2排出を削減すればそれは経済の崩壊につながる。というものです。

しかし、ここで第3のアクターとして外務省がでてきます。外務省は、なんとか議長国としてCOP3を成功させなければという思いがありました。

それは1991年の湾岸戦争の時です。日本はなんら手をうてず、急かされてようやくなんぼかの(といっても莫大ですが)資金と、申し訳程度に自衛隊の掃海艇を送っただけでした。

イラク戦争の時と違って、フランスもロシアも多国籍軍に参加したこの時、機敏な対応ができなかった日本は世界の笑い者でした。少なくとも外務省はそう思い、屈辱に耐えていました。

そのため、日本外交の成果として、ここでなんとかCOP3を成功させなければならない。そのためには、議長国日本が具体的な排出量削減を示さなくてはならない。外務省はそう考えていたのです。

こうして、環境庁に外務省が肩入れして、通産省との対立が激しくなります。

この状況を打開するべく、当時の橋本首相が当時の古川官房副長官(事務方)に命じ、調整に入ります(事務方の官房副長官というポストは、官僚のトップ中のトップ)。結局、通産省が折れ、日本は90年比2.5%の削減を主張することでなんとか一致したのでした。

こうして京都会議をむかえることになるのですが、その会議がどうなったのか、そして何が決まったのかはパート2で解説していきます。

>>パート2できました。

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