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締結50周年、「サンフランシスコ平和条約」(2ページ目)

サンフランシスコ平和条約の締結から今年で50周年。田中真紀子外相が訪米して大規模な式典が行われたりしました。サンフランシスコ平和条約は、今でも大きな意味を持つ条約です。分かりやすく解説してみました。

執筆者:辻 雅之

【沖縄基地問題の出発点でもあった】

この条約の第3条で、沖縄・小笠原諸島が日本から切り離され、当面アメリカによって統治されることが定められました

東シナ海や太平洋のど真ん中にある沖縄や小笠原諸島は、アジアににらみをきかせておきたいアメリカにとって戦略的に非常に重要な場所であったため、自由に使えることが必要だったのです。

じっさい、沖縄はアメリカの統治下で、多くの土地がアメリカ軍の基地や軍用地として使用、固定化されていったのです。これが現在までつづく沖縄基地問題の出発点です。

また1960年代になるとベトナム戦争がはげしくなり、アメリカは沖縄を重要な基地としてフル活用することができました。このことが、また沖縄の日本復帰を遅らせることになります。

けっきょく沖縄の日本復帰はベトナム戦争が1960年代末期になって泥沼化し、アメリカがベトナムから手を引くことを検討しはじめることによって、やっと実現することができたのです(1972年)。

しかし沖縄返還後もアメリカにとって沖縄が重要であることにはかわりなく、基地はいまにいたるまでほとんど返還されてはいません。今でも沖縄は、サンフランシスコ条約体制の影を色濃くひきずっているようです。

【北方領土問題の出発点でもありそう】

先にも述べましたが、ソ連(今のロシア)がサンフランシスコ平和条約に調印していません。このことが、その後の日本とロシアとの関係に大きな影響を与えています。

本来ならば、平和条約で日本とロシアの国境を確定しておく必要があったわけです。しかし、ソ連が条約に参加しなかったことで、その国境が未確定なままになってしまっています。とりわけ「北方領土問題」は、日本とロシアの関係修復を妨げてしまう大きなしこりになっています。

北方領土と呼ばれる地域は、日本とロシアが江戸時代末期に国境を確定した時、日本領土の最北端とされた地域で、択捉島、国後島、色丹島、それに歯舞諸島のことをさしています(★くわしくはこちらの地図をごらんください)。

戦後、ソ連軍がこの地域を占領します。しかし日本は「北方領土地域はさいしょから日本の領土であり、ソ連(ロシア)が支配する理由はない」として、その返還を求めています。

もっとも、サンフランシスコ平和条約第2条で「日本は千島列島を放棄する」と定められているのがやっかいなところです。「千島列島」に北方領土が含まれるのかどうか、そもそも「千島列島」の定義を定めた条約なんかもないわけで、難しい問題です。

どちらにせよ、サンフランシスコ平和条約は「日本とアメリカの同盟関係をつくる」ことをねらってつくられた条約だったのですから、日本とロシアとの関係は後回しにされてしまったわけです。個別に交渉すればなんとかなるだろうと思っていたら、もう50年もたってしまったのですね。

しかしこのことを後回しにしなければ、いつまでたっても日本の占領がつづき、独立が遅れていたかもしれません。日本の経済発展にも少なくない影響があったかもしれません。
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