プロレスの魅力はいつだって現実(リアリティ)と幻想(ファンタジー)の境目に
試合に勝てば、強いということになるのか?アクロバチックな受身を取ったら、うまいことになるのか?
トップといわれる中には、圧倒的な勝ち星を持ちながらも、レスラーと呼ぶに相応しいとはいえない身体やコンディションでリングに上がり続けている選手も増えた。でも、試合に勝つのだから、プロレス素人からみれば強いことになるのだろう。
鍛え抜かれた身体を持つバリバリの若い選手であっても、メタボのような中年レスラーに敵わないという現実。「これがプロレス」。こういわれればそれまでだが、そんな理屈が素人に通じる筈はない。強いにしても、うまいにしても、根本的な説得力を伴わないのだから、そんな釈然としない世界に誰が興味を持ってくれるのか。
大事なことはやっぱりバランスなのだろう。リアリティのないプロレスに説得力は伴わないし、ファンタジーも広がらない。プロレスの魅力はいつだって現実(リアリティ)と幻想(ファンタジー)の境目にあった。どちらが欠けてもプロレスは成立しない。にも関わらず、昨今のプロレス界からは“リアリティ”ばかりが欠落していくように思える。
要するに、強いも弱いも、うまいもへたも、既に大前提が崩れているのだ。
話を変えよう。
例えば、ラリアットなどの攻撃に対し、一回転に横捻りを加えて受身を取る選手がいる。業界的には“受けがうまい”と評される選手だ。
ただ、何かの衝撃に対して、そのような反動が生まれることはあり得ない。すなわち、そこにリアリティは存在しない。
その一方で、プロレスがへたといわれる選手がラリアットを受けた。きれいな受身は取れず、不格好で崩れ落ちるように倒れていく。受身はへたかもしれないが、これが極めてリアルな姿だろう。
現代のプロレス界に求められるは前者か後者か――。
強いレスラーって何が強いの?
うまいレスラーは何がうまいの?
リアリティの崩壊したプロレス界、レスラーが持つべき、あるいは、表現すべき“強さ”や“うまさ”をもう一度考えてみよう。そして、かつて我々が愛し熱狂した時代を歩んだ偉人達の話を聞いてみようと思った――。
[藤原喜明インタビューへ]