“プロレスの先に総合格闘技が存在する”
そんな淡い幻想を、木っ端微塵にしてしまったUFCの登場
――実際、UFCの衝撃は、K-1やリングスをもってしても何の免疫にもなりませんでした。「その前にNumber309で『格闘者たちよ!』(1993年2月)っていう初めての格闘技特集を作ったんだけど、その時はK-1直前だったから、佐竹雅昭、平直行、アンディ・フグを載せて、これから格闘技というものがくるんじゃないかっていうのがあった。表紙はディック・フライだったんですけど、この辺も時代ですよね(笑)。
ちなみに、アンディも若くて、カッコよかった。ジーンズ姿のまま、ハイキックを出す写真を久家靖秀カメラマンに撮ってもらったんだけど、あれはどこかでパクられた。私がやっていたNumberの写真のビジュアルに関しては、ことごとくパクられているんですよねぇ。それは誇りとすべきかもしれないけどね(笑)。
『格闘者たちよ!』では、UWFから、リアルファイトのプロレスという猪木から始まる夢が実現するかもしれない、ということで、特集の巻頭では、夢枕獏さんに『総合格闘技の夢』っていう文章を書いてもらったんですよ。K-1もなければ、UFCも、PRIDEもなかったから。
日本は格闘技の先進国であるっていうニュアンスのことを書いてもらって、大道塾であるとか、格闘技オリンピックであるとか、リングス実験リーグであるとか、そういういろんな動きがあって、リアルファイトのプロレスの先に総合格闘技が存在する。獏さんの「総合格闘技の夢」はそんな感じの内容だった。そういう見る側の幻想も含めて、全てUFC2で木っ端微塵にやられちゃうんだからね。
もちろん、その前にはUFC1をやっているから、『格闘技通信』の安西さんみたいにもっと先に見た人はいたと思うけど、“(リアルファイトとは)こういうものだったのか?”と日本人が本格的に衝撃を受けたのは、UFC史上最も凄惨な闘いだったUFC2だったと思う。
ちなみに、UFC2の衝撃っていうのは三つあって、“(リアルファイトは)こんな凄惨な闘いなんだっていう驚き”、“こんな凄惨な闘いの中で、無傷で勝ち抜くことができる男がいるという驚き”、“無傷で闘い、勝ち抜くことができる技というのは日本から伝わった柔術なんだっていう驚き”ですよね。講道館柔道ができる前には、寝技の柔道ってものがあったんですけど、前田光世を守ってくれたものは立ち技ではなくて、寝技のテクニックだった。彼自身は講道館の人なんだけど、それまで何人もの日本人がアメリカやヨーロッパに行っては、凄まじい闘いをしてきた。
その代表が谷幸雄って言うんだけど、身長は、150cmちょっとしかない。だから、スモール・タニっていうニックネームだったんだけど、その小男が自分よりも遥かに大きな欧米人に向かって“誰の挑戦も受ける”と宣言して、実際、ことごとく絞め落としてしまうんです。
その後には、前田光世が出てきてリアルファイトをやったり、プロレスをやったりしながら、ブラジルに定住して、そこで柔術を教えたのがグレイシーの一家だったんです。
でも、前田が柔術を教えたのは、カーロスだけじゃなくて、大勢の人に教えているんだよね。彼がヨーロッパでやってた時に、“これは柔術だな”って、色んな人に言われるんだけど、本人が“いや、これは柔道だよ”って言ったところで、スモール・タニとジュウジツの名前はあまりにも有名だったから、誰も聞いてくれなかった。だから前田は自分が教えるものを“ジュウジツ”と呼んだ。講道館の前田がグレイシーに伝えたのが“柔道”ではなく“柔術”だった理由はそこにあったんです。
例えば、『1976年のアントニオ猪木』のルスカのところでは、NJJBってのが出てくるんだけど、これはネーデルランド・ジュードー・ジュウジュツ・ボンドの略語。つまり、オランダ柔道柔術連合なの。
ホイスが凄いのは、日本の寝技の技術で裸の相手に勝ったこと。それはエリオが初めて柔術の技術をバーリトゥード(以下、VT)に特化したんだよね。前田や谷は、あくまで柔道家、柔術家だったから、裸の相手には限界があった。でね、エリオってのは、柔術をVTで勝てる技術にした。ブラジルでは“自分と闘うならば柔道衣を着ろ”とは言えなかったから。
当時ヴァーリトゥードの技術を持っているのは、エリオ・グレイシーだけだった。今にしてみれば、魔法のようなもの。そのグレイシーの魔法というのは、結局は柔術という魔法だし、それは、過去に日本人が使っていた魔法でもあった」