欧州、日本と転戦。ベイダー来日のきっかけとは?
――ベイダーさんの持病の膝を心配しているファンも多いのですが、具合はどうですか?「フットボールをやっている時から定期的にケガしていたからな。ただ、これは今始まったことではないし膝のケガとはずっと付き合っていくしかない。
フットボールプレイヤーだった頃、医者からは“もう普通に歩けないだろう”って言われたし、プロフットボールを続けるのは無理だったのかもしれないが、その後、レスリングに移って活躍できたことはよかったと思う」
――さて、ベイダーさんは今年の12月で、日本マットに来日して丁度20年になります。日本に来日するきっかけは、マサ斎藤のスカウトと聞きましたが、当時、貴方はヨーロッパでもサーキットをしていましたよね。具体的にどのような経緯があったのでしょうか?
「当時、こちらのAWAでは、国際的なスターでもあるマサ斎藤と、6人タッグで闘う機会があったのだが、彼は、俺の試合や動きに高い関心を示して、後にオファーが来た。
でも、当時の俺はオットー・ワンツにスカウトされ、ヨーロッパで闘う契約をしていたので、日本に行くことはできなかった。その後、新日本プロレスが俺を探してくれたみたいなんだけど、既にヨーロッパにいたためか、なかなか見つからなかったらしい。結局、新日本の話を聞くことができたのは数ヶ月後になった訳だ。
新日本からのオファーは、金額的にもよかったし、条件もよかったのだが、丁度、ミスター馬場(全日本プロレス)から5週間のツアーに参戦するという話も貰っていた。
その時は、新日本のオファーを断わったんだが、その後、新日本と全日本が話し合いの場を持って、俺が新日本へと出場できるように取り計らってくれた。こうして、俺は新日本からのオファーを受け入れることができたんだ」
――初めて日本マットに登場した日のことを覚えていますか?あの日、スモーアリーナ(両国)は貴方が猪木に圧勝したことで、大変な騒ぎになり、今となっては日本プロレス界の歴史に残る一日となりました。
「初めて日本で闘った時は、観客やアリーナ、どんな試合になるのかも全く想像できなかったし圧倒的な雰囲気だった。
当時、藤波(辰己)と闘う筈だったのが、なぜかそれがなくなったんだ。急遽、マサ斎藤からは“お前の出番だぞ”って言われて、俺は猪木と対戦することになったのだが、それまでは、この日、自分の試合がないものだと思ったので帰ろうとしてたんだよ。
試合に関しては、人生最大のチャンスだと思ったし、興奮と緊張が交じっていた。あの時、俺は猪木から数分で勝利したけど、その後、猪木と俺の対戦はどんどん面白くなっていったよな。俺自身も受けや立ち振る舞いを理解してきたので魅せる試合ができるようになっていったのではないかな」