飯田覚士にボコボコにされる日々

吉田秀彦
いまやリングでの道着姿に違和感のなくなった吉田だが、今なおそのアイデンティティの根本には柔道が根強い。いち早く“時代の空気”に感化された岩倉とは全く別の道を歩んで、この場にたどり着いた神童。
彼らが多感な十代を過ごした1980年代後半から1990年代といえば、格闘技界にとっても大きな地殻変動の起こり始めた時期。新日本プロレスに所属した一部若手プロレスラーたちが、格闘技的技術の可能性を求めてUWFを旗揚げし、大いにファンの意識を揺さぶった時代だったからである。彼らの動きに刺激された格闘/プロレスマスコミが、その動きを“UWF革命”を称揚し、多くのファンたちが、「最強の格闘技は何か?」「真剣勝負のプロレスは可能か?」「路上の現実に既成の格闘技は通用するか」といったテーマを、真剣に追求し始めた時代でもあったからだ。

まして、吉田が全中選手権制覇を成し遂げた年1984年といえば、佐山聡が修斗という世界最初の総合格闘技を世に問うた、まさに“総合格闘技元年”。競技者たちは、多くの迷いを抱え、自分たちの競技の枠を越えて“強さ”の幻影を追う道に踏み込んでいった時代である。当時、石井和義館長が率いた、フルコンタクト空手界の常勝軍団・正道会館は、さらに顔面打撃の可能性を追求、K-1旗揚げに邁進していく。門下に佐竹雅昭、角田信朗、後川聡之、田上敬久、金泰泳を擁し、ムエタイ、キックボクシング、果てはU系プロレスにまで殴り込みを重ねた彼らの最強追求の動きは、競技の枠を越えようとするムーブメント「さまよえる格闘家」として、大いに格闘ファンの心を揺さぶったものだ。

だが、まだまだそれは一般社会とはまったく別の、コアな格闘ファンたちだけの“内輪の盛り上がり”でしかなかったのも事実。“既成の格闘技”柔道の王道を歩む吉田秀彦は、そんな流れには目もくれず、八年後には1992年バルセロナオリンピックで金メダルを手にしている。

一方、その吉田に「道場の壁までぶん投げられた」男は、そのまま格闘技界の最辺縁地域を“さまよえる格闘家”として放浪していた。1990年、二十歳を越えた岩倉は、緑ボクシングジム練習生として入門。当時緑ジムにはデビュー前の飯田覚士(元日本スーパーフライ級チャンピオン)が所属しており。ここでも岩倉は、自分と同級生である“1969年生まれの天才児”にボコボコにされる日々を送っていたのだった。

地下格闘技の帝王、地上侵攻作戦開始!? (7)に続く

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