改めて思い知る父の偉大さ
今や落ち着いたその語り口から、十代の頃の刹那的な生き様は感じられないが、時折見せる鋭い感性はやはり“ナイフのように尖った”時代を経験した人間の持つ、怜悧な切れ味を感じさせる。 |
坂口「まず高校の時に無期停学になって、一ヶ月半ぐらいだったですかね。ウチにいてもしょうがないんで、おふくろが『あんた合宿所に行きなさい』って。ちょうどそのとき佐々木健介さんと石沢さん(ケンドー・カシン)がいて、そこの練習にポーンと放り込まれて、めっちゃくちゃしごかれまして。筋肉痛で歩けないんですよ。自転車漕ぐこともできなくなって」
――それは正式に新弟子として入門した?
坂口「いや、それは、おふくろが『こいつ、やらかしたから、しごいて』って。で、まあ一ヶ月ぐらい無理矢理やらされましたね。結構目を盗んでサボったりはしてたんですけど(笑)。ただ、サボりつつも一ヶ月半ほど乗り切ったんで、ちょうど新弟子検査っていつも二月とかにやるんで、このまま受けちゃおうかなって思ってて。周りもそういう感じで見ててくれた人もいると思うんですね。で、そうやって話してるときに、オヤジの名前ってのがボーンとのしかかって来たんですよね。俺は、プロレスラーになりたい一個人のつもりだったんですけど。そのころガリガリで大きくならなかったんですよ。体重70キロも全然いかなかったんで。普通の一人のプロレスラーとしては、それでもいけるのかもしれないんですけど。ただ、そうなった以上は、坂口征二の名前がずっとつきまとってくるんで」
――坂口征夫という個性じゃなくて、どうしても坂口征二の息子、坂口家の二代目と見られちゃう
坂口「またあの時期、自分の先輩になるんですけど、世間は若貴ブームってのがあって。世間からみると、すばらしいお父さんたちがいて。見方だとは思うんですけど、親と比較して見られちゃう。長嶋一茂さんとかでも」
――あー、確かに昭和のスポーツヒーローのジュニア世代がどっと出てきた時期ですよね。
坂口「そうですね。運がいいのか悪いのか、自分の先を考えて、若貴のようになれる根性も何もないなとふっと思いまして。それがすっごい自分にのしかかって来て」
――そんなにプレッシャーがありましたか
坂口「すごかったですよ。それで…きっぱりあきらめました。もう止めようって」
――ちょっと俺は違うなと?
坂口「違うし…すごく感じてたんですよ。柔道が嫌いだったんで、どこの道場行っても、多分講道館行ったり、明治大学行って練習したりしても、結局『おまえ、坂口の子供だろ? おまえ何でそんなに弱いの? オヤジはもっと強かったぞ』ってずーっといろんな人に言われてきまして。いつの日か、オヤジはオヤジ、俺は俺なんで、オヤジが強いから俺が強い訳じゃないってのは、ずーっと心の中にありまして。それがすごい柔道嫌いになる理由でもあって。そういうのも、プロレスに行けば忘れられるのかなって思ってたんですけど。また同じことが乗っかってきちゃったんで」
――お父さんの存在がある限り、堂々巡りですね
坂口「結構…簡単につっちゃいけないですけど、結論は出ちゃいましたね。“まーた、ここか”みたいな感じで、もうダメだって。プレッシャーに潰されたんですね」
――息子だからって簡単に乗り越えることのできないぐらい、お父さんのやってきたことが偉大だったってことでもあるんでしょうね
坂口「そうだと思いますね、はい」