日本で一番将来を嘱望された小学生だった
――船木、鈴木、ライガーの寮生時代っていったら、UWFより全然前ですね。坂口「ずっと前ですね。あの人たちがまだ骨法に通ってたころです。それで鈴木さんがポンと入ってきた頃でしたね。一緒に海に連れてってもらったり。すごい遊んでもらってましたね。家も道場の近くだったんで、自転車で遊びに行ったりとか」
――もうその意味では、日本で一番将来を嘱望された小学生だったと(笑)
坂口「なんかもう、ありとあらゆるものを教えこまれて(笑)。最初、酒飲まされたのもライガーさんで(笑)。なりたいっていうよりもう、ならなきゃいけないもんだって感じのとらえ方してたんで。その後中高で柔道やってたんですけど、柔道家として柔道が強くなりたいとかじゃなくて、プロレスやる前の準備、でしたね」
――学校はどこでしたっけ?
後に坂口が総合格闘技への道を選択するキーとなったのが、菊田の活躍だった。 |
――がっちりコネを押さえに来ますねえ(笑)
坂口「まあ、そっから仲良くさせてもらって。多分…自分の中ではイジメだったと思ってるんですけど…筋トレ中にブレンバスターされたり(笑)。あの人、プロレス技しか掛けてこないんで(笑)。」
――柔道部じゃなくて、プロレス部ですな(笑)
坂口「まあ、でも優しい人なんで、練習終わってから一緒に飯食いにいかせてもらったり、すごく親しくしてもらいました」
――強くなるにはいい環境ですよね。柔道の成績的にはどうだったんですか
坂口「柔道は一応六年やって、ピークの時は中三ですかね。一応地区で、世田谷区の国士舘とか強豪がいる中で、軽量級では三位になったりとか、関東大会出たりとかで。ただそのときに一回肘の骨折がありまして、それまで背負い投げが得意だったのが、できなくなっちゃったんですね。自分のなかでも、それでやっぱり腐っちゃった部分があって。高一になって、もういいやってなって。ウェイトばっかりやってて。柔道やってるけど、半分はウェイトみたいになちゃって。高校の三年間はダラダラと過ごしてましたね…」
荒鷲の不孝息子35年目の飛翔・坂口征夫(2)に続く