DV被害者としての過去に決別して
「Domestic Violence(ドメスティック・バイオレンス)」という言葉をご存知だろうか? 最近は、日本でもマスコミを通じて使われる事が多く、一般用語になった観もあるので、解説は必要ないかもしれない。翻訳すれば「家庭内暴力」。
配偶者や、親など近親による過剰な暴力と虐待を言う、忌まわしい言葉だ。
なんとローラは、その被害者だったと言うのである。
格闘技を最初に始めた理由は、そのDV被害から身を守るためにセルフディフェンスが目的という、非常に生々しい理由だったのだ。
もちろん当人はインタビューで水を向けてもその実態を滅多に明らかにしない。大会前にBoutreviewUSAが行った単独インタビューでも、格闘技に向かった動機をこう語っている。
「今は娘が宝物」と語るローラ。リングを降りればすっかり母親の顔だ |
だが、DVに喘ぐ彼女を見かねて、後に所属する事になるNYのタイガーシュルマンジムに、引きずるようにして彼女を連れて行った彼女の母親はその生々しい被害状況を隠さない。
「最初、あの子をタイガーの所に連れて行った時は、全くの内緒だったの。当時結婚していた男が、まったくのロクでなしでね。事あるごとに腹いせにローラを殴るのよ。金属バットで身体を殴られまくって、救急車で運ばれたこともあるんだから。このままじゃあの子は殺されると思って、引き離したんだけど、それでもあの男は、職場に現れて脅迫めいた事を言うわ、娘を学校に迎えにいくところを待ち伏せされていきなり殴られたり、すっかりストーカーみたいになって。だから、私は彼女をサバイバルさせるために、タイガーが開いていたセルフディフェンス講座に申し込んで、無理矢理つれていったのよ。もちろん、ファイターにするつもりなんかなかったわ(笑)」
まさに、典型的なドメステック・バイオレンスの被害者である。
無論、習い覚えた格闘技の技術で、復讐に燃える暴力夫を撃退したと言うようなマンガチックな展開ではなかったというが、当時習慣的になっていた夫の攻撃によって、精神的にも萎縮し、生きる気力さえも失いがちだったローラにとって、格闘技というスポーツに触れたことが、大きな展開点になったという。
おどおどと怯えた気持に支配されていたローラが、攻撃的に迫ってくる夫と正面から向かい合い、娘を守る気概を取り戻したのは、間違いなく格闘技を学び始めたことがきっかけだった。その事だけは、決してローラも隠そうとはしない。
「自信ね。格闘技を始めて、私が得た最大のものは、自信。自分がダメな奴じゃない、ちゃんと他人に負けないで闘えるんだってことを、格闘技が教えてくれたのよ」と。
ダンサーとして生計を立てる傍ら、二十歳で出産したというから、アメリカの基準で言ってもそれは若い結婚であったのだろう。確かな職も持たず、ただ酒を飲んで嫁を殴る事しか知らない乱暴な夫の攻撃に震える毎日。若いローラが生きる自信を失っていったのも無理はあるまい。
現在、彼女の職業は看護士だ。
プロとして格闘技のリングに上がるようになったのと、ほぼ同時期にスタートしたこの仕事を、彼女は非常にエンジョイしていると言う。
「私、人を助けるのが大好きなの。(笑)人がよくなっていくの、手伝ったり見ているのって素敵なことよ」
そう語るローラ。
決してその心理の深奥を明かす事は無いが、もしかしたらかつて自らも夫の暴力によって何度も入院するハメになった過去が、その仕事を選ばせる動機の一つになったのかもしれない。弱者に尽くし、そしてその回復を見守る看護士という職業は、確かに、一度無惨に人生の翼を折られた経験を持つ彼女には非常にふさわしい気がする。
当初は夜勤看護士としてハードな勤務をこなし続けた彼女だが、最近になって昼間の勤務に変わったという。シフトの厳しい夜間勤務では、試合のオファーが入っても、なかなか休暇を取る事が難しく、ただでさえ少ない試合機会が減るというのが、勤務を変える大きな動機になっているようだ。
プロになって三年で三つのベルトを奪取したことで、 DV被害者としての“負け犬人生”にもようやく一つの区切りがついたのかもしれない。格闘技によって人生の敗者復活戦に勝利することになった今のローラの表情は至って明るい。だからこそ、こんな言葉も吐けるようになった。
「闘うのはチャレンジじゃない? 私はそのチャレンジする、というのが大好きなのよ。私がどれだけできるのか、知りたいのよ。そして試合で何かしっくりいかなかったり、叉はうまくいかなかったら、じゃぁあとはどこを練習して上達していけばいいか判るでしょ?そういったチャレンジの繰り返しが大好きなの」
“格闘技をやっていて顔面を殴られる恐怖を感じたことはないか?”という、インタビュアーの危険球ギリギリの質問にも、シニカルな笑みを浮かべてこう答える。
「ぜーんぜん。でも本当は、私、人を殴るのは好きじゃないのよ(笑)」
多分、韜晦にみちたその答えの向こう側には、かつての悲惨な光景の記憶が畳み込まれていたに違いない。だが、あえてそれを語らないことで、固く過去に封印してしまおうとする、彼女の強い意志が僕には感じられた。
彼女の悲惨な過去をほとんど知る事のない、十二歳になるひとり娘との生活が今の彼女の支えだ。今回のトーナメント優勝で得た賞金も娘とのショッピングに宛てるという。
「優勝したわよって娘に電話したの。そしたら即こう言うのよ『ママ、何買ってくれるの?』ですって(笑)でも、ウチを出てくる前からの約束だから。次日本に来る時は、娘も一緒に連れてくるって約束したから、そのための貯金もしなきゃいけないし、優勝なんかするんじゃなかったわ(笑)」
そう言って弾けたように笑う表情からは、恐怖に震えた十年前の生活の痕跡をうかがうことはできない。彼女がリングに上がる事で求めた「強さ」は、三本のベルトでも無敗記録でもない。この曇りの無い笑顔を獲得するためのものだったのかもしれない。