「日本の空手が他の国の格闘技と違うのは…日本の他の武道にも言えることだけど…“道”の概念だと思う。競技で勝つ、というのが最終目標ではなくて、日々の練習そのもの,たどって行く道そのものに意義があって、競技は単に自分のやり方を確かめる機会でしかない。自分を高めていく過程はどこまでも続いて,たとえ年をとっても、チャンピオンになっても勉強することがある。こういう考え方をすばらしいと感じたのです」
まさに生涯アマチュアであることを誇りとする大道塾生らしい発言ではないか。この言葉の中にこそ、プロ格闘技一辺倒に傾く現在の日本の格闘技界のありように対するアンチテーゼが込められている気がしてならない。世界20数カ国の支部とハイクラスの競技者たち
総合格闘技を、パブリックな競技にしたいと言う声は、実は結構古くからある。最初に、修斗を“天覧競技”にしたいと言いはじめたのは、たしか創始者の佐山聡であったとおもうし、現在その精神を受け継いだ日本修斗協会では、アマチュア修斗を学校教育に取り入れられるよう活動を行っている。
同じUWF出身の前田日明もアマチュアリングス開始の時にオリンピック化構想を口にしており、また現在JTCの普及に協力するパンクラス尾崎允実社長なども、総合格闘技をオリンピック競技とする構想を折に触れ開陳している。
だが、これまで見てきたように、実際にオリンピック組織委員会(IOC)が求めるアマチュア組織の基準=世界クラスの競技人口、運営組織、普及度といった要素を満たすものはほとんどない。
アマチュアならではの表彰式の風景。彼らの頭上に月桂冠の載せられる日は来るのか? |
すでにこの連載の最初にも紹介したように「国際パンクレーション協会」の日本でのパートナーとしても名乗りをあげた実績もあり、次回2008年の北京オリンピックでの競技採用の声も高い武術太極拳や散打にも積極的に選手を派遣するなど、大道塾側にもオリンピックに選手を派遣したいという意向はありありと見える。
実際、空道がその認定争いに名乗りを上げないのは、おそらく東塾長の慎重な性格と、空手や散打などといった先行競技に対する気遣いがあるのではないだろうか。
「(競技への取り組みに対して)海外と国内の温度差というか熱意の差のようなものがあって、海外で武道で名を成すというのはそのまま人生での成功につながる部分があるが、日本の場合、武道は一つの教養であり、引き出しの一つという感じで、仕事じゃないという部分で、本当に自分の人生を賭けるものとしては物足りないという感じがある。前回世界大会がああいう形で大成功に終わって、ようやく選手たちの間に、あの華やかな舞台で戦いたいという想いが出てきたのは、こっちの思惑通りになってきたなという感触がある」
これは今回大会前に、2005年開催予定の世界大会の展望として語られた東塾長の言葉である。確かに金銭的見返りを二の次に、試合だけに集中するアマチュアにとって、“競技に熱中する見返り”は多くの支持者から与えられる栄誉に尽きる。東塾長としても、弟子たちに“人生を賭けられる舞台”を準備してやりたい親心があって、ここまで組織運営を行ってきたはずである。
実際、世界20カ国以上の支部から世界のトップファイターを迎える「世界大会」を開催出来るということは、空手、テコンドーに次ぐ規模であり、こと総合格闘技に限って言うなら、世界一のアマチュア競技になりつつあるといってもいい。それは同時にオリンピックのIF認可資格を満たすだけの陣容を整えつつあるということでもある。
空道が、さらに生涯アマチュアを誓う競技者により安定した修練環境と夢を与えるために、そしてなによりより広範な支持者を獲得するため、アマチュアのトップの祭典に照準を定めることは、空道の理念とも齟齬しないはずだ。
かつてギリシア時代に隆盛を極めたパンクラチオンは、あまりにもてはやされたが故に競技者の高邁と堕落を招き廃止の憂き目を見たという。今、格闘技ブームの最中の日本にあっても、華やかなプロシーンに目もくれずストイックな武道性を追求する彼らなら、その轍を踏むことはあるまい。そんな空道の戦士たちが、オリンピックの舞台に立つ日を、僕は夢想してやまない。
【関連クローズアップ記事】
復活した伝説の格闘家、沈黙の十年の意味に迫る
「長田賢一、北斗の涯を越えて」
【もっと知りたいあなたに】
大道塾公式ページ