リングという名の自由領域
「サッカーやっててずっと辛かったのは自分の考えが全然通せないことだったんですよ。プロになってもチームを選ぶのはエージェントの意見。僕は家族のいる所の近くのチームに行きたいのに、日本には上下関係とかあってしょうがないって我慢して。試合でも僕は足の速い選手だったんですけど、ボール出す人が考えるスペースと僕の考えるスペースは違うんですよね。それでボールが繋がらない。なのに監督とかに“お前はボール持って走ってればいいんだ”とか言われちゃって。もうイヤだ、もうイヤだって気持ちがずっと溜まってたのかもしれない。格闘始めた時に思ったのは、やっとこれで自由に、自分の思った通りにやれるって事だったんですよね」
移籍遍歴の連続も、結局小さな行き違いの積み重ねが産んだようなものだった。最初の所属チームであったエスパルスユースからして、チームに上手く溶け込めないまま、条件面での衝突もあり、たった一年で退団。最後は置き手紙ひとつを残して、夜逃げ同様の離脱だったという。その後エージェントの仲介で、ヴィッセル神戸へ。当時ゼネラルマネージャーを務めていたバクスター監督はマイケルを可愛がってトップで起用する事が多かったが、後任の司令官とは反りが合わず三年目は戦力外通告を受ける羽目になる。一年の休養の後、水戸ホーリーホック、サガン鳥栖とJ2チームを渡り歩いたものの、マイナーチームの現実は厳しく、給料だけで暮らせなくなった彼はカラオケボックスの店員のアルバイトをしながらというセミプロ状態を強いられる。
しかし、相変わらず戦術面では“走り屋”以上の扱いを受けられず、ストレスだけが溜まって行く。この窮地を打破するため、海外に活動の場所を求めたマイケルだったが、セリエAペルージャのセレクションに合格しながらも、Jリーグ残留を主張するエージェントのストップが掛かり帰国。だがいつまでもJリーグにチームは見つからないまま、いたずらに時間だけが過ぎる。
そして、マイケルは引退の道を選んだ。
少年時代から課せられた、安住の地を持たない流浪生活に、23歳の青年は早くも倦み疲れていたのだった。
「最後はもうサッカーはイイなって思うようになってましたね。チームに居た頃は練習ばかりで、自分の趣味とか友達と遊んだりとかできなかったんだけど、休んでる間にそういう生活も出来るようになって。音楽とかも始めたんで、もうそっちで上手く行けばいいなとか思いはじめて」
こうした彼のいい分が客観的にみて妥当かどうか、肝心のサッカー時代の彼を知らない僕には判定のしようがない。彼個人のわがままな気質が原因の孤立であったのか、あるいはハーフである彼に対する周囲の偏見や蔑視が産んだ軋轢だったのかも、また同じだ。
ただ彼の言葉からわかるのは、サッカーという集団競技の場を、満足の行く自己表現の場として使い切る事がついぞ無かったという事実である。幾らすばらしい資質を持とうとも、結果を出せなかったアスリートは敗者でしかない。これだけは厳然とした事実ではないだろうか。
その意味で、マイケルはサッカー人生に敗れた敗者ーLOSERーと断じても決して間違いではあるまい。