この二人が最初で最後の対戦を、一方の引退試合で闘う事になろうとは、当時は想像もしなかったにちがいない。むしろ、何十回となく出世争いを繰り返していくライバルになるのではないか、そう意識しあって合宿時代を過ごしたにちがいない。
だが、時代は両者を否応無しに引き離していく。
旗揚げ当初はプロレスの文脈からスタートしたパンクラスに体重制などなかったし、外人以外に外敵など存在しなかったために、日本人選手は同門対決が当然だった。しかし、10年の総合格闘技の進歩は飛躍的だった。瞬く間に体重制によるクラス分けが一般化し、日本人選手を養成するジムが多数できた。パンクラスでもそうした流れを受け入れていった。ルールもいつしかオープンフィンガーグローブ着用によるグラウンドパンチが許されるものとなり、闘いもその分シビアになった。そしてそのハードさは選手生命も次第に短くしていく。創始者の船木が先頭を切って引退していき、そして途中参加した山田学も全身ぼろぼろになって、道なかばにしてリングを降りることになった。プロレス時代には考えられなかった早さでリングの上の光景が変わっていく。旗揚げ当初ルーキーだった稲垣が、たった十年の選手生活でその幕を下ろすことになったのも、半ば無理の無い話だったと言えるだろう。
「ひじを何回か剥離骨折していまして、それで手術をして、だんだん可動範囲が狭くなってきて、普通にスパーリングするときでも、すこし曲がったり、伸ばされたりするだけでかなり痛く、力が入らなくなることもあるようになってきて。その時に凄く感じましたね。この状態でレベルの上がったリングで、定期的に試合を続けていくことが果たしてできるのかと。練習もままならない状態なのに、試合をすることは難しいと思いました。そういうこともあって、引退を決めました」と引退理由を語る稲垣。
奇しくも旗揚げの大会にデビューした男が、丁度十周年にその現役を退く。単に偶然とは思えないような、暗合を感じずにはいられない。稲垣の選手生活に期を同じくするように、パンクラスもルールが変わり数々の浮沈を繰り返し、傷だらけの歴史を刻んできたのだ。
「UFCとか修斗とかいろんなものが出てきて、パンクラス自体始めは格闘技界でもすごく先頭切ってたところがあるとおもうんですけど、途中でいろんなところで置いていかれたと思うんですよ。でも、そこで止まってたら先がないんで。真似してるように思えるかもしれないですけど、こう言うふうに変化するってことは凄いことだし、生き残って行くためには必要な事だったと思うんです。僕自身は楽しいとかはなかったですね。苦しいというのもなかったですけど。やっぱりいろいろ技術も進化していく中で、対応していくために負けたくない、そういう気持ちだけでやってました」