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復活した伝説の格闘家、沈黙の十年の意味に迫る 「長田賢一、北斗の涯を越えて」(6ページ目)

昨年北斗旗に現役復帰した伝説の格闘家長田賢一。その沈黙の十年とライバル佐竹雅昭との生き様の対照を通して、プロとアマチュアの間に横たわる大いなるイズムの違いを考察する。

執筆者:井田 英登

だ、僕の中に疑問として氷解していない問題がまだ若干あり、それを聞きだすために個人的に長田に食い下がって聞いたやり取りが、ここに残っている。それを蛇足として付け加えることで、だらだらと長くなったこの稿の最後の締めくくりとしよう。

---長田選手は、今の「空道」がかつて空手スタイルから、寝技偏重に傾いていることに寂しさを感じたりしませんか?

「最近ね、今更なんですけど、空手の伝統的な型を練習することが多いんですよ。空手道っていうのも伝統文化ですから、まだまだ、学ぶことも多いし、僕自身それを後輩達に伝えていくことに意味があると思ってますしね」

---じゃあ、純粋な空手の試合に出る事もありうる?

「いやあ、自分にとってはこれ(北斗旗)が最高ですから。このルールの中で寝技とか、掴んでからの打撃を磨きたいなと。試合とかはそれを試す場ですから。武道の修業というのは、自分のライフワークなんで。最先端をやる一方で、地に足がついた伝統も受け継いでね。それをもって進化したって形をとりたいんで」

---なるほど。ただ長田選手個人の、ファイターとしての欲求というのが、今の北斗旗の中だけで完結するのかなという疑問が、やっぱりまだあるんですよね。せっかく現役復帰したんですから、かつてのムエタイ挑戦とか、立ち技の世界でやり残したと思うようなことはないですか?

「ああ、それはありますねぇー。ある意味郷愁になっちゃうかもしれないんですけど、またムエタイとかとはやりたいんですよね、実は。タイでもう一回リングにあがりたいなって気持ちがあるんですよ。一生のうちで、もう一回ぐらいはね」

 やはり長田という男は、ただ者ではなかった。

 「社会人としての自立と武道の両立」を標榜する大道塾にとって、北斗旗は日ごろの鍛練の成果を確認するための、アマチュアイズムの祭典にほかならない。長田はその現場に戻ることで、武道家としての“日常”を取り戻したのだ、と僕は思っている。だが、まさか彼がその先の標的までを心に秘めていたとは、正直思わなかった。

 たとえば日ごろサラリーマンとして働く登山家が、その趣味の一環として長期休暇をとって、エベレストやヒマラヤという世界最高峰に挑んだりする事例は幾らでもある。それと全く同じようなスタンスで、長田はタイを目指しているのである。

 の想いは、時に北斗の星をも遥かに越える高みを得ることがある。

 かつて青春を燃やした修羅の場所に、今再び回帰しようという、この中年アマチュア格闘家の挑戦を、誰も暴挙と笑うことはできまい。それは15年前の夏、彼が辿った道のりと何ら変わることの無い、純粋な想いの結晶なのだから。
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