どういういきさつで長田がこのニールセン戦のオファーを断ったかは、未だつまびらかにはされていない。ただ、ここに一つの歴史的分岐点が発生したのは事実だ。佐竹はこのニールセン戦を出世試合にして、93年のK1GP開催に至る、プロ格闘家そして時代の象徴としての道をひた走ることになる。
一方、その佐竹のライバルに称せられ、グローブ空手のメッカとなりつつあったトーワ杯での直接対決などを一方的に噂された長田は、そうした動きに頑ななまでに背を向ける姿勢をとった。だが、いたずらに正道会館vs大道塾の対立の構図をあおり立てるマスコミは、その姿勢に疑問符を突き付け、時に挑発的な記事をもって長田ならびに大道塾の姿勢を叩く報道を繰り返すことになる。この嵐のような挑発のつぶてをもってしても、結局長田の姿勢は変わらなかった。結局、92年7月7日WARSでのポータイ・チョーワイクン戦、そして同年11月の北斗旗無差別級大会優勝を最後に、長田は格闘技の表舞台から姿を消す。まるで自らの決意を、アスリートとしての黄金の十年を封印する事で表現するかのような、長い長い十年の沈黙が始まるのである。
この時期、長田の胸中にいかなる思いがあったのか、僕らには知る術もない。当時20代後半にあった長田にすれば、自らの存在を広範に誇りたい気持ちも無くは無かっただろう。事実、雑誌のインタビュウなどでも、長田はちらりと自尊心をのぞかせる言動を放ち、佐竹との対決に乗りだすかと思われる瞬間があった。それがどこまでが本心だったのかはわからないが、いつか拳を合わせる瞬間があるかもしれないという思いは、きっとどこかにあったと思う。そして、その時が訪れたら、自分が後れを取ることは絶対ない。そんな自負が言葉の端に現れたのかもしれない。そうした“真剣”を胸に秘めながら、佐竹がスターダムに駆け上っていく姿を、長田はどんな気持ちで見送ったのだろうか? 想像を絶する苦悩が、そして修羅が心を駆け巡ったのではないだろうか?
“プロフェッショナルアスリート”という生き方は、選手が頂点に立つその一瞬の輝きをファンの目に焼き付ける事で成立する。考えてみれば極めて刹那的な生き方である。生涯の営為を一瞬で表現するその姿は、美しくはあるが、あまりに儚い。
現に、このとき時代のトップランナーとなった佐竹も、K-1の余りに激しい切磋琢磨の流れの中で多くの傷を負って、格闘人生の最終周回までは覇気を維持することが出来なかった。
まず97年、頭部に蓄積したダメージが元で、物が二重に見えるほど重症の視覚障害を負った佐竹は、初の長期欠場を経験。復帰後の99年には、同門の後輩である武蔵との直接対決で敗れ、その判定に不満を表明してK-1離脱という、決して芳しくない行動を見せている。さらにその後、舞台を総合格闘技であるPRIDEに移したものの、クィントン・ランペイジ・ジャクソンのパワーボムを頭部に受け、頭がい骨陥没という格闘生命を左右する大怪我を負う羽目に陥った。結局、総合ではこれといった戦績も残せないまま、引退を宣言。プロ格闘技のリングを後にした。
ただ、僕個人は不思議なほど、その引退を惜しむ気持ちが起きなかった。最末期の佐竹は、試合中でも突如闘気の失せたような表情を見せることがあり、かつてのドン・中矢・ニールセン戦でみせたような、がむしゃらな勝利への執着を失っていたように見えたからだ。実際、引退試合となった吉田との試合ではこれといった見せ場も作ることが無いまま、たった50秒で締め落とされての終幕を迎えている。不慣れな総合の舞台でのことと言うには、余りに淡泊なその試合ぶりに、彼の全盛期を知るファンは少なからず寂しい思いをしたのではないだろうか。
だが、これがプロアスリートの現実であるという言い方も出来る。プロ野球でもサッカーでもそうだが、スター選手の敵は目の前の対戦相手だけではない。絶好調時の活躍が鮮烈であればあるほど、年を重ねて、体力気力に衰えを見せた時には、そのギャップ自体が彼の評価を圧迫する。老兵となるにつれて、活動の場所は狭められていき、最後には首に巻き付いた絞首刑台のロープのように、全盛期の栄誉が彼らの息の根を止めてしまうのだ。