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連載「“リアルファイト”の十年間(3)」 プロレスとの不連続線~UWF編(3ページ目)

プロ格闘技興行大きくが変動したこの10年間をテーマに、「格闘技」の意味と現状をディープに掘り下げる連載連載第3回。今回の話題は「UWFのその後」と「1993年の三つの革命」。

執筆者:井田 英登

■1993年の三つの革命

とはいうもののUWFの蒔いた種は確実に日本に、リアルスポーツとして格闘技が定着するための地ならしをしてくれました。UWFによって掘り起こされた格闘技需要は、そのマーケットを狙う後発団体に引き継がれてより巨大化しましたし、当時UWF戦士に憧れた少年たちが次々に格闘技関連のジムに入門したため、ファイター人口も爆発的に延び、そのことが後の格闘技ブームを支える有力な選手を産んだのですから。

しかし、実際にスポーツとしての格闘技がプロフィールドで展開されるようになったのは何時かといえば、それは1993年だと明快に答えることが出来るでしょう。この年、格闘技界には時代を変えるような三つの動きが、同時多発的に勃発したのです。

一つ目は5月に代々木オリンピック記念体育館で開催された第一回のK-1GPです。世界トップクラスのヘビー級キックボクサー8人が一堂に会して、一晩で世界一を決めてしまおうという超豪華なトーナメント、それがK-1GPでした。実際、それまでは彼等を使いこなすだけのビジョンを持ったプロモーターはおらず、またヘビー級選手のダイナミズムを活かすルールをきちんと成立させる団体もありませんでした。大阪で正道会館を主催していた、石井和義館長はその点をきちんとおさえ、キックボクシングの展開をマニアックにしていた肘攻撃や、長々とした首相撲の展開をルールで排除して、ストレートにKOの魅力が引きだされる競技としてK-1を設定したのでした。

また優勝賞金25万ドルという壮大なスケール感や、フジテレビとがっちり手を組んだメディア戦略など、メジャースポーツに匹敵するきちんとした競技の輪郭をそなえたイベントとして、いきなり「正解」をファンに突き付けてきたわけです。

さらにリングの上にも衝撃が待ち受けていました。ピーター・アーツ、モーリス・スミス、アーネスト・ホーストといった淙々たる面々を押さえて、クロアチアの無名選手ブランコ・シカティックが優勝を遂げた展開は、真剣勝負の意外さ、そしてスポーツとしての爽快さをファンに強く焼き付けたのです。

そしてそれに続く第二波は、その年の9月にUWFを経由した藤原組若手の7人の選手がパンクラスを旗揚げした事でした。これまで極めの取り合いを延々見せ続けたUWF的スタイルに決別して、とりあえずヨーイドンで、勝負を決めにいったらどうなるか、それをひたすら希求した彼等の試合は、いずれも短期決着が相次ぐ秒殺試合として話題になります。特にメインを務めた“エース”の船木誠勝が、いきなりケン(当時ウェイン)・シャムロックの地味な肩固めに失神TKOで破れた姿は、格闘スポーツの非情さ、ルール至上の世界観を実現したものとして話題となったものです。

そして最後に控えた波が11月のUFCの開催でした。おそらくこれはこれまで格闘技界になかった最大の大波となりました。それはこの大会の企画者でもあった、グレイシー一族による格闘技世界征服作戦の第一波だったからです。

(この項終わり:次回に続く)
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