切ない涙。イアン・マキューアン 『贖罪』
最後に真相がわかったとき、切なさに涙がこぼれます。 |
物語をつくるのが好きな少女ブライオニーは、13歳の夏、休暇で帰ってくる兄とその友人の自作の劇で迎えようとはりきっていました。練習のさなか、窓辺からふと外を見やったブライオニーの目に飛び込んできたのは、白い裸身を晒す姉と、傍らに立つひとりの男の姿。ブライオニーは衝撃を受け、姉とその男の関係について誤解をしてしまいます。それから、美人の従姉が何者かに襲われるという事件が起こります。ブライオニーは犯人として、男を名指しするのですが……。
少女らしい潔癖さに空想癖と嫉妬心も加わって、ある恋人たちの運命を狂わせてしまうブライオニー。戦争がさらにそれぞれの人生を翻弄します。早く刑務所から出たいがために、危険な戦地に向かう男。看護婦として働きながら、男を待ち続ける姉。そして罪の意識を抱いて成長するブライオニー。事件の真相はわからないまま、年月が経っていきます。
ラスト。意外な真実が明らかになり、タイトルの意味がわかったとき、あまりの切なさ、哀しさに胸をぎゅーっとつかまれてしまうのです。
無私の涙。フィリップ・クローデル『リンさんの小さな子』
川上弘美、高橋源一郎も泣いたという傑作は、雨の季節にぴったり。 |
船の後部に老人が立っている。腕には軽い旅行鞄と、その鞄よりもっと軽い赤ん坊を抱えている。
という文章で物語ははじまります。老人の名はリンさん。戦争で何もかも失い、難民になりました。リンさんの家は息子夫婦と生まれたばかりの孫娘の4人家族でしたが、残されたのはリンさんが抱いている忘れ形見のサン・ディウだけ。リンさんは船が港に着いたとき、新しい国の匂いをかぎます。でも何も感じません。〈ここは匂いのない国なのだ〉とリンさんは思います。
リンさんのいう“匂い”は〈親しめるもの、心なごませるもの〉という意味の匂いです。懐かしい記憶や大切な人と結びついた匂い、自分は確かに生きていると実感できる匂いです。匂いのない国に、リンさんの居場所はありません。ある日、リンさんは、サン・ディウをつれて街に出ます。行き先はないから、同じ道をぐるぐる歩きまわるだけ。疲れて座りこんだベンチで妻を亡くしたばかりのバルクさんに出会います。バルクさんはリンさんに亡くなった妻の思い出を語りますが、言葉が通じないリンさんにはまったく意味がわかりません。リンさんは名前をたずねられたのに挨拶されたと勘違いして「タオ・ライ(こんにちは)」と言ってしまいます。
何を言っているのかわからなくても、バルクさんの言葉は乾いていたリンさんの心に慈雨のように沁みこみました。そしてリンさんは、バルクさんが吸う煙草の匂いを〈この未知の国が初めて与えてくれる香り〉だと感じるのです。過去と現在をつなぐ“香り”をくれたバルクさんに、リンさんは精一杯の贈り物をします。バルクさんはリンさんの名前を「タオ・ライさん」だと思いこんだまま、リンさんはバルクさんの国では何度も「こんにちは」と言うのだと誤解したまま、二人は友達になります。そこで心なごむのもつかの間、さらなる過酷な運命がリンさんを待ち受けているのですが……。
リンさんとバルクさんはその後どうなるのか、ぜひ読んで確かめてみてください。リンさんの感じる“匂い”が“香り”から“薫り”に変化したとき、えもいわれぬ感動が味わえるはず。漢字の表記で匂いのニュアンスの違いをあらわした訳者もすばらしいと思います。
と、ここまでの紹介だと「どこがミステリーなの?」と思われるでしょうが、ある仕掛けがあります。読みながらなんだか引っかかっていたことが「こういうことだったのか!」とわかったとき、リンさんとバルクさんの幸せを願って涙せずにはいられません。世界で悲しみを背負っているのは自分だけじゃない。見知らぬ誰かの人生に思いをはせてみたくなる、大きなテーマを含んだ小説なのです。
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