『MISSING』『FINE DAYS』など、余韻深い作品で人気の著者が、真正面から恋愛を描く |
『真夜中の五分前』
・本多孝好(著)
・価格:サイドA、サイドB 各1260円(税込)
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■こ洒落た外観の恋愛小説。されど、流行りの「純愛小説」とは一味違う
サイドAとサイドBの分冊形式で発行された本田孝好の最新作。『眠りの海』で小説推理新人賞を受賞し、『MISSING』『FINE DAYS』と、ミステリーのスパイスを効かせた余韻ある作品で知られる著者だが、本作は、男が女を、女が男を恋うということを真正面から扱っている。洒落た装丁、刊行スタイルを含め、これからの季節、プレゼント本としてもかなり使えそうだ。
だが、そんな少々軟派な外見に似合わず、中身は、ある意味で、とても骨太である。この著者に骨太という形容はあまり馴染まないが、少なくとも、この作品は、甘いだけの恋物語ではない。巷を席巻している、純愛を謳いあげた「泣ける」物語でもない。
物語の主人公であり、語り手の「僕」は、広告代理店に勤務する20代の青年である。出世競争に積極的にコミットするタイプではないが、仕事ができないわけではない。その優秀さゆえに敬遠されている女性上司とも、良好な関係を結んでいる。女性関係も一見、それなりに華やかで、出入りのカメラマンの助手との関係が噂になったりしている。だが、その一方で、仕事にも、恋愛を含めた人間関係にも、どこか一歩引いたところがあり、活きていることの熱量を感じさせない男だ。
実は、彼は、大学時代に「恋人」と呼んでさしつかえのない関係の女性を事故で亡くしている。どこかで聞いたことのあるような設定だが、この「僕」の感情は、あの「僕」の感情とはかなり違う。自分が、彼女の死を、「哀しい」と感じているかどうかについて、まったく確信がもてないのだ。(こっちの方が、リアリティーありません?)。彼は、自分が、女性を、他人を「想う」ということが、できうるのか、できるとすれば、それがどんなことなのか、不明のままに日々に暮らしている。
そんな「僕」は、ある休日、通っている公営プールで「失恋のリハビリをしている」と言うひとりの女性と出会う。かすみと名乗る彼女には、双子の妹がいる。彼女の「失恋」は、自分と同じ感性の存在がこの世にもう一人いることから派生している宿命的なものだ。異性を恋うということの意味をつかみかねている「僕」と、そんな彼女の間に、恋は始まるのか・・・サイドAでは、その過程が描き出される。
■「恋愛」というパッケージを剥がし、曖昧で、不確かな感情に迫る
この物語が特徴的なことは、「恋」が、そうたやすく始まらないことだ。「僕」は、自分が誰かに恋をするということに対して、とても懐疑的である。
現実を顧みてみると、私たちは、さまざまなメディアが、さまざまな「恋愛の形」を提供してくれる時代に生きている。他人を想うという曖昧で複雑な感情は、そういうパッケージには入れてしまうだけで、ちゃんと、「恋愛」になる。だが、その中身は、ほんとうに、自分と相手が生きていくうえで切実で、必要で、崇高なものなのだろうか。それは、どうやって、確かめるのだろうか――透明感のある美しい文体の背後には、著者のそんな冷徹な視線が感じられる。主人公である「僕」がさまざまな事象を「広告」という一種のパッケージに入れることで価値付ける仕事についているのも象徴的だ。
しかも、この著者の恋愛に対する一種懐疑的なスタンスは、サイドBでさらに拍車がかかる。