『東京タワー』
幼少時代の思い出から、最愛の母を看取るまでを、透徹した視線でみつめ描いた自伝的長編

『東京タワー』
・リリー・フランキー(著)
・価格:1575円(税込)

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 文章家、コラムニスト、絵本作家、イラストレーター、作詞・作曲家・・・ジャンルを越えて活躍するリリー・フランキー氏。初の長編小説である『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』が、今、反響を呼んでいる。同作は、著者自身の少年時代、青春の彷徨、そして、「オカン」を過ごした最期の日々までを描いた作品だが、幸運なこどに、著者であるリリー・フランキー氏にインタビューをさせていただくことができた。今回は、その模様をお届けする。

たとえ、どんなに切なく悲痛な言葉を使ったとしても、自分の記憶の悲しさには勝ることがない。これと同じ気持ちでものを書くのは・・・

――この作品をご執筆なさっきっかけは、お母様が亡くなられたということにつきますか?
リリー ええ。執筆の背景にあったものは、単純に母親のことを書きたい、その思いだけでした。
自伝というようにも言われるのですが、おふくろのことを書こうと思うと、自分のことを書かないわけにはいかなかったということですね。

――本作を読んでいると、言葉のひとつひとつが、ほんとうにリリーさんの肉体の一部を削り取るかのようにして生まれ出てきたものように感じ、胸を衝かれます。執筆にあたっては、想像を絶するほどの葛藤がおありになったのでは、と推察するのですが・・・
リリー 書き始めてから4年かかりました。冒頭のところは、何回も書き直して、最初のあたりは、迷い迷い書いていましたね。

――迷われた、というのは、どんな点ですか?
リリー 迷う、というか、書き方がわからなかった。もっと言うなら、自分の感情をどう整理し、どう文章に定着させればいいのかが分からなかったですね。書き始めてはみたものの、追悼文のようなものになって、自分でも読めたものじゃない。その場限りのものになってしまう。これは、違う。だけど、どう書けばわからない・・・そんな感じで、しばらく書かない時期もあって、少し時間を置いて、同人誌に参画させてもらったんです。そこで連載をしたわけですが、今考えると、時間をかけたのが、よかったんだと思います。

――「追悼文」のようなものになってしまうのは、違うと感じられたということですが、本作を読んで、ご自身のあまりに辛い体験を描くのに、リリーさんが、自分で自分に酔う、というところがまったくなくて、むしろ、ドライで、お母様への愛情や、その死による深い喪失感や、後悔が、ドライで突き放した語り口で書かれているに心を打たれたのですが、それは、意識されたのですか?
リリー 書きながら、自分自身に酔う、ということはまったくなかったですね。でも、うーん、文体が、ドライとかいうのは、意図したことではまったくありません。むしろ、書くときに、あえて対象に距離を置くことで、精度の高い文章を書こうとか、そういう計算、けれんみのようなものは極力排除しなければ、と思った。
もし、「ドライ」とか、突き放した、というような風に感じるとすれば、それは、どんなに切なくて悲痛な言葉を選んだとしても、それよりも、ずっと、ずっと、オレ自身の記憶のほうの悲しさに勝つことなんてないからだと思う。自分自身に酔って泣く、ということはなかったけれど、泣きながら書いた部分はいっぱいあります。そこは、知らない間に、書いているんですよ。 泣きながら書いたところのほうが、原稿用紙が進んでいました。

――やはり、苦しまれたのは、お母様が闘病生活に入られた後半ですか?
リリー ええ、後半はしんどかった。時間軸が進むにつれ、おふくろの死に近づくわけですから。書いているときにしんどくて、ゲラを読んだときに、また辛くて。もともと、オレは、どんな作品でも、楽しんで作っていいものはできないという思いで作っているんですが、この作品の場合は、作業の労力・集中力といったものに加えて、精神的な苦痛があった。これと同じ気持ちでものを書くのは、これからはしたくないし、しないと思います

自分と母との関係が、特別なものだとは思っていない。どんな人も、親との関係を書いていけば、この作品くらいのボリュームになると思う

――リリーさんといえば、これまでの作品は、どこか粋な雰囲気のようなものがあって、そういう先入観からすると、親子の愛情とか家族とか、どちらかという「恥ずかしい」というようなテーマを真正面から取り上げられた作品を書かれたことが、少し意外な気がしたのですが・・・
リリー そういわれるだろうなぁとはいう予測はしていました。でも、オレにしてみれば、そう思うほうが、むしろ、不思議だな、と思いますね。人って、5分単位で、違うことを考えていると思う。「いやらしいことばっかり考えている」といわれる人がいたとして、その人だって、24時間、そんなその一部分だけだけを延々と作品にする人は、むしろ、器用な人だなと思う。たとえば、オレの今までの作品のどれかが好きで、次に出るのも全く同じものじゃなくちゃ、イヤだと思う人に対するサービス精神のようなものはないけれど、あえて、何かを変えてやろうと意識したわけではないです。ここ数年で、もっとも心が動いたのが、母の死だった。それで、この作品を書いた。ただ、それだけです。
でも、いつか、なんと言うか、対象との距離の取る時に、何枚も予防線をひいて作ったものより、大きな声でいうべきことを、言わなくてはいけない、そういうことは、他人事じゃなくて、自分に関する「恥ずかしい」ことなんじゃないか、そういう思いはありました。人間って、他人と直接的な関係性を結ぶとき、相手が、自分の恥ずかしいこと、たとえば、コンプレックスを打ち明けてくれたら心を許しますが、作品を介してうまれる人との関係性でも、それを求めているというのはあると思う。

――大きな声で言うべき、個人的な「恥ずかしいこと」、それが、リリーさんにとって、お母様のことだったということですか?
リリー うーん、恥ずかしいから、書こう、と思ったのとは少し違うかな。でも、何も、オレとおふくろの関係は、すごく特別なものだった、というものでもないんです。こうやって一冊の本になると、ドラマを感じるのかもしれないけれど、どんな人だって、自分と親との関係を書いていけば、これくらいの本になるでしょう。もちろん、いろんな親子関係があると思いますが、そこには、何らかの恥ずかしさのようなものはあると思いますね。

――おそらく、この本を読まれた方の多くは、その親子の間にある「恥ずかしさ」みたいなところにも共鳴なさるのでしょうね。
リリー 本がこうして出てしまった以上、読む人がどんなとらえ方をなさるのかは、もう著者の関知するところではないと思いますが、やはり、「読んだ後、親に久しぶりに連絡しようと思います」というような感想があるようです。自分の親との関係性を投影しながら、この作品を読んでいただいているのでしょう。そこにどんな葛藤があって、どれくらい疎遠で、というようなことは、それぞれでしょうが、親と子の関係性というものは、完全に断ち切ることはできませんから。

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