4-D Live in Tokyo (May '06) |
今回、4-Dの中心人物である小西健司さんに過去の事、そして再始動した4-Dについて、できるだけブックレットでカヴァーされていない内容を中心に伺ってみました。
DADAでデビュー
――小西さんの周辺の方とは結構面識があったのですが、先日ついにご本人にお会いできて、嬉しかったです。その時、「4-Dをまたやります」と言われた時は、正直びっくりしました。では、古い話からお聞きしたいと思います。小西さんが泉陸奥彦さんとやっていたDADAのデビュー・アルバム『浄』(1978年)は、阿木譲さんのインディー・レーベル、Vanity Recordsの第1号リリースでもあるんですよね。阿木さんと言えば、テクノポップの命名者、「ROCK MAGAZINE」編集長としても知られる人ですが、どんな経緯でVanityからリリースすることになったのでしょうか?
そういえばあれがデビュー作になりますね(笑)。4-Dの話より古いので、「更に(笑)」よく覚えていないんですけど、阿木氏と初めてあった時が飢餓同盟の結成した日だと思います。初めて顔合わせしたメンバー(平山照継、安田隆)で当時、モンスタータイムズと言う名前のライブハウスを梅田でやり始めていた阿木氏に心斎橋Parcoの向かいにあったWilliamsって喫茶店で会ったのが最初です。
飢餓同盟の策士として凄腕の安田が、まだ音も出したこと無いのに「オリジナルは200曲くらいはありますよ」と早速腕をふるっていました(笑)。その頃からすでに「ROCK MAGAZINE」の構想は阿木氏の中ではあったように思います。でも「ROCK MAGAZINE」=雑誌名だとは思いませんでしたね。
その後ロッキーホラーショーの大阪公演、放送媒体の活動等と、独自の活動をする阿木氏の周辺に居ることが多くなり、飢餓同盟は安田隆と二人だけのユニットとなり自然消滅して、DADAになった頃のリリースだと思います。コンセプトは阿木氏から提示された、「餓鬼草子」って本からインスパイアされた即興演奏でした。当時のFlip & Eno的なものと日本的なものを意識しました。「Ain Soph」や「だててんゅう」らが大阪では活発に活動していたころです。
――Vanityはほとんど再発がないわりに海外にもコレクターがいて、レコードはプレミアムがついたりします。DADAは他のVanityのアーティストとは横の関係とかあったのでしょうか?
海外のコレクターですか?それはすごいですね。例によって(笑)、僕は持っていません。確か200枚位しかリリースされていないのではないですか? Sabは、飢餓同盟の時代、阿木氏がやっていたNHK若いこだまの演奏収録で大阪のNHKスタジオで会った覚えがあるのとNormal Brainは藤本さんですから、会うのはもっとずっと後ですね。後、このVanityからのリリースには入っていませんが連続射殺魔とは、飢餓同盟~DADAとオーバーラップする頃には付き合いがありました。
DADA |
作品は作るところまでが本筋で、定着してしまったら、もうあまり関心がないのは、昔も今の4-Dのメンバーも同じ感覚なのですが、DADAは当時のECMのテリエリプダルやバンゲリスの初期の音に影響されていた頃の結成で、DADAの二枚目の録音をする頃には海外ではNWが出始めていて、そちらの方に既に関心が飛んでました。で「静謐な音はもういいや」と…最初から二枚目はLP片面づつ別々に作ろうよって事になってました。
スロッピンググリストルやトーマスリア&ロバートレンタルが大好きで日本ではマンドレイクが気になる存在でした。「この人達一曲40分くらいあるらしい。すごいね(笑)」と。