Jaermulk Manhattanの歴史
――はじめまして。Jaermulk Manhattanという名前を最初に聞いた時、日本人だとは思いませんでした。どちらかと言うと、日本びいきのオタクな移民ニューヨーカーのイメージ。あくまでも、イメージですが。Jaermulkとは何語?名前の由来は?はじめまして。ヤーマルク・マンハッタンです。これはよく聞かれるのですが、ヤーマルクの名前の由来は思い付きです。すいません! RISK SYSTEMのコンピレーション『FAMILY ASCENSION V3』の曲を作っている時、名前を考えていて、小田急線に乗っている時に口からでてました。家に帰って「ヤーマルク」調べてみましたが何もでてこないのでスペルだけ丹念に作っていきました。Jで始るのはなんとなくあまり好きじゃなかったけど、名前を精巧につくるにはやむをえず。マンハッタンというのは、1年くらい経ってなんかもの足りないと思い、道でぶつぶつ言ってるうちに出てきました。発音したとき聞いた時にしっくり来る事と濁点なしということが何より重要でした。あと名前作りは好きなほうですので楽しんで作りました。なので、そこに意味はありません。
――Jaermulkとして活動する以前も、バンド歴は長いようですが、これまでの歩みを教えてください。
打ち込みを始めたのは高校の頃で、最初Roland MC-50(シーケンサー。ホイールの部分に松居直美さんのシールを貼っていますので「直美」と呼んでいます)とD-5(シンセサイザー)を買いました。ちょうどその頃高校の友人が電気グルーヴっていうのが面白いってなって、僕が打ち込みちょっとできたので「バンドやろうぜ!」となり、のちにとれまレコードのコンピに入る「EFECTAHEAD」の前身ができました。電気グルーヴと同じように2人ボーカルがいて僕が打ち込みしてという感じで。大阪の難波ベアーズでよくライヴをしました。
関係ないですがライヴやりはじめた頃にはRoland MC-50(直美)とD-5を手放していてRoland MC-4をわざわざ買ってCV-GATEで曲をつくっていました。曲は全然電気グルーヴぽくなく、4音くらいしかなっていないシリコン・ティーンズみたいでした。メンバーがパンク好きだったこともあり、よくデッドケネディーズやらダムドやらなんやらカバーとかもしてたので。でもやっぱり音的にサンプラーが欲しくなって、意地を張ってCV-GATEで動くEMU Emulator-1も購入したこともありましたが、LDKスタジオでもなんでもない我が家にはあまりに大きすぎ2日悩んで返品したこともありました。
といろいろありつつ機材も素直にMIDI使うようになり、ちょうどその頃1994年くらいでテクノがじわじわ来ている頃、当時、大阪にあった田中フミヤさんのとれまレコードにデモテープを送ったことがきっかけで『とれまクラシックス』のコンピレーションに参加させてもらいました。出てすぐくらい短大に行くことになって、あとバンドが音的に生っぽくなっていったので僕はちょっと違うなと思い脱退することにしました。それからは1人でずっと家で打ち込みばっかりしていました。どこに発表するわけでもなく膨大なDATの山を作ってました。1995年、1996年はそのころの流行りの音はとにかく見よう見まねでチャレンジしていました。今聞いたらとてもヘタクソなんですが、本当に楽しんで曲をつくっていて、若いときのパワーというかむちゃっぷりはすごいなあと。
そして1997年、今回のアルバムのキーとなる年、まずコーネリアス『ファンタズマ』にやられ、そして電気グルーヴ『A』、2つめのバンド「g-lum(グラム)」を作り、そしてP-MODEL『電子悲劇/~ENOLA』がでて、私事ですがつきあっていた彼女にフラれるという、音楽的にも精神的にも非常に僕にとって重要な年となりました。「g-lum」は女の子2人と僕の3人で、今度は打ち込みだけどテクノっぽくないのをやろうと。音はポップな感じで、純粋に曲として完成度をあげたいとずっと思ってました。また難波ベアーズが拠点でした。その頃はメジャーの会社に普通にデモを送っていました。「g-lum」はまだはっきり解散はしていませんでしたがなんとなくみんな忙しくなって、今は「凍結」ということで。この「g-lum」という名前も適当に口からでたんですが、調べてみたら意味が「陰気な」とかで、なんか自分に合ってるなあとか思いました。
2002年、友人のYO-HEADとXHR3人でフロア向けユニット「TERRASOUNDS」を始めました。梅田のダウンで定期的にやっていた「リズムリーフ」というイベントに出ていました。いわゆるテクノなユニットで3人おのおの曲を持ち寄ってライヴでDJミックスするやり方でした。テクノ基本で、自分のなかでテクノを真剣にやってた頃です。しかし、私はよくモンドなサンプリングやら邪魔な音(動物の泣き声や金属音、あとヘタクソな手弾き等)を入れて迷惑をかけて怒られていました。一番年上なのに一番むちゃしてしまってました。でもいままでずっとライヴハウスだったので、クラブでライヴするのはとても新鮮でした。オフコースをサンプリングした曲やKUWATA BANDのカバーでみんな踊ってくれたりしました。
――どうして、Jaermulkとして活動しようと思ったのでしょうか?
2003年に東京へでてきて、友人の邂逅の日がRISK SYSTEMのコンピレーション『FAMILY ASCENSION V3』に誘ってくれたんです。そのコンピで「FROM LORESIA TO LONDARCHIA」と「3 Shells for Wild-Duck」という曲で参加させてもらいました。今までバンドでは何度かCDというかたちになっていましたが個人名義での参加はそれが初めてでした。でも、その時はまだJaermulkとして何をしようとかは定まっていない状態でした。それから、ちょっと前から考えていた3拍子で1曲作ってみて、これだ!と思ったんです。やっとスイッチが入ったというか。そして名前に何の前ぶれもなく、いきなりマンハッタンがついてという感じです。
久々にかなり初期衝動的な音の作り方で、1997年頃のようなスピリットをもう一回呼び起こすきっかけになりました。なにか少し面白いことの発見でものすごく熱中できる感覚ですね。でもずっとやっているとそれがなくなってくるんで、どうやって自分のテンションをあげられるかが重要なんです。「わー」ってならないと曲つくれないですね、やっぱり。