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ニューロマだった人達~Part II Duran Duranリユニオン!(2ページ目)

先週のJapanに続いて、ニューロマ界の貴公子、Duran Duranです。Duran Duranは6月に来日を控えており、来日後、な、なんと、オリジナル・メンバーで新録に入るとの報告が公式サイトにてされています。では、ニューロマとは何ぞや?そして、Duran Duranの栄光の軌跡ついて。

四方 宏明

執筆者:四方 宏明

テクノポップガイド

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Blitzシーンはロンドンで79~80年に初期のDavid Bowie、Roxy Music、Kraftwerk等をプレイしたクラブをやっていたRusty Eganによって始められた。一般のクラブでやっていたものとは異色の音楽をプレイしていた事から、少しづつだがこのクラブは人気を獲ていった。Rustyは自称Steve Strange(テレタビーズを万引きして御用…トホホ~筆者コメント)を見いだし、普通でないグラマラスな格好をしていた人だけをクラブに入れるドアマン(今で言う黒服ですね)にした。

約1年後、クラブにとても人気が出てきた(人々はたとえ一日であっても、平凡で退屈な毎日の生活から抜け出す必要があった!)ために大きなクラブを見つけなくてはいけなくなった。新しいクラブはBlitzと呼ばれるCovent Gardenのワイン・バーであった。クローク・ルームで働いていた(クラブに入る際お客のコートの面倒を見るお仕事)美しい女の子のような若者、彼こそはBoy Georgeであった。

僕たちの衣装を全て作っていたニューロマ系ファッション・デザイナーのJane Kahnは、Duran DuranのSimon Le Bonの恋人でした。とても小さなシーンで、かつロンドンだけであったため、そのころは皆が皆を知っていた。ShockはUltravox、後にSpaudau Balletとなる少年たちと共にBlitzでこんな人たちの前で演奏をしていた。

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その後、ニューロマはフューチャリストというより美形アイドル的側面が強くなっていきます。本国の人はほとんど知らないG.I. Orangeは、日本向けニューロマ的アイドルでしょう。こうして、ニューロマは80年代に栄枯盛衰の歴史を作りました。90年中盤に英国の業界でRomoというニューロマのリバイバルが企てられるが、見事に外れました。

日本でもテイ・トウワが96年にKOJI 1200の名のもとに今田耕司に『ナウ・ロマンティック』を歌わせていました。フリルのシャツ着ていましたね。ニューロマは外見的には日本のヴィジュアル系のルーツ的存在と言えるかもしれませんが、音楽的にニューロマを正しく継承しているバンドはあまり無いのでは(反論されそう)?
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