モモヨさんへのインタヴュー続編です。
――LIZARDのプロデュースをかって出たストラングラーズのジャン・ジャック・バーネル(J.J.)氏は、具体的にプロデューサーとしてどのような助言をLIZARDに与えたのでしょうか?
最大の助言は、歌詞は日本語でなければならない、というものでした。あと、詳細な部分で、いろいろな話があります。まず、J.J.とアルド・ボッカの二人からは、録音スタジオでのノウハウを学びました。エデンスタジオです。リミックスは、逆に私達がJ.J.を使った形です。これはエアースタジオを使いました。作業はJ.J.に完全にまかせました。
「あなたは、プロデューサーなのだから、あなたのLIZARDを制作しなさい」というような感じで、J.J.をひどくびっくりさせたようです。私達はJ.J.の力を100パーセント信頼していましたし、彼のノウハウを引き出したかったのです。となりのスタジオではピート・タウンゼントがケイト・ブッシュのアルバムをミックスしていたので、私達はそれを眺めていたり、かなり無責任な状態でしたね。
――ロンドンに滞在中、後にZTTでトレヴァー・ホーンと組むNMEのライターであったポール・モーリーに取材を受けていますが、彼について何か印象に残った事があれば、教えてください。
すばらしいインタヴュアーでした。まず、それは間違いありません。当時の私達に関する記事、およびインタヴューでは、音楽に対する熱意、誠意をもってアプローチしたものは多々あるのですが、誰も彼に比較できません。
ちなみに、インタヴューは、ペニー・スミス(写真家)とのペアで行い、UA(レコード会社)のオフィスで一日、最初にバンドのメンバーと一緒に数時間、その後、メンバーには街へ買い物に出てもらい、二人だけで半日のインタヴューを行いました。そして数日おいてミュージックマシーンでのギグの当日に取材込みで一日行われ、ミックスダウンの終了時に半日行ったわけです。
最初のインタヴューとギグの間に、東京の音楽シーン関係書類、ミニコミからポパイまでの記事とその翻訳、東京ロッカーズ、東京ニューウェイヴの音源など、私が手渡した資料を彼なりに咀嚼し、それを中心に話を進めたのです。彼にしてもジャン・ジャックにしても、日本のシーンはそれなりに知っていたのです。
しかし、ヤードバーズなどのオリジナルをアレンジ込みでフルコピーし、それを自分の曲として楽曲登録している音楽家がいる国、これが日本に対する主たるイメージだったようです。つまり、ポールは、日本にはプライドを持ったロックは存在していない、そう考えていたのです。多くのイギリスのアーティストがそうだったようです。