●どの『忠臣蔵』を観たのだろう。
近藤が近藤周助の養子となった年から、浪士組として京へ上るまでの14年の間、江戸の官許を持つ江戸三座(中村座、市村座、河原崎座)では約11回の『忠臣蔵』の公演をしている。(以下、『歌舞伎年表』より)
1849年嘉永2年 4月 河原崎座、7月 中村座
この年の暮れ、江戸十里四方追放となっていた市川海老蔵(七代目市川團十郎)が赦免されている。歌舞伎十八番を制定し、『勧進帳』をプロデュースした立役者である。
1851年 嘉永4年 2月 市村座
1854年 安政元年 5月 中村座、11月 河原崎座
この年の8月、大坂で八代目市川團十郎が自殺。
1857年 安政4年 10月 森田座
1858年 安政5年 5月 市村座
1859年 安政6年 9月 市村座
1862年 文久2年 3月 中村座
もちろん上京して後、京の都や大坂の芝居で観たかもしれない。上京後しばらくは大した「仕事」もなく、時間を意外にもてあましていたかもしれないからだ。
だが、ここはひとつ江戸の『忠臣蔵』を観たと考えて抽出してみた。
イケメン役者、八代目を観たかも?
単なる直感だが、近藤という人は元々芝居や役者に熱を上げるタイプではないような気がする。
「誰それの由良之助だから行かなきゃ!」なんていう柄でもなさそうだ。
理心流に入門し、後に近藤周助の養子となった嘉永2年か、あるいは黒船がやってきて攘夷の風が吹き荒れ、国を憂える気持ちが高まっていた、浪士組結成の直前の年である文久2年あたりで、何かの機会に『忠臣蔵』を観ていたのでは? とも考える。
ただ、この時期江戸ではコレラなど伝染病がひどかったという記述もあるので、人の集まる芝居町などには足を踏み入れていないかもしれない。
一方で、ひょっとすると、今の海老蔵並に婦女子に大人気だった八代目團十郎の死など、瓦版のような当時のメディアで目にしていたかもしれない。妻のつねはどうだったのだろう。想像は膨らむ。
いずれにしろ、七代目や八代目の團十郎が活躍する江戸三座で、『忠臣蔵』を観ていた可能性(あくまで可能性ですが)はあるのだ。・・と考えるとちょっとワクワクする。
江戸三座もこのとき、天保の改革や八代目團十郎の自殺などで、風雲のさなかにあった。時代の風波にさらされていた江戸の町で、近藤は芝居を見て何を思ったのだろう。
参考:『新選組!』展図録、『新選組始末記』子母澤寛、『芝居は忠臣蔵』丸谷才一、
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