日本の漫画界を進化させたマンガの神様——手塚治虫。

ここでは手塚治虫さんと宝塚歌劇のつながりをお話します。

1928年、大阪府豊中市で生まれた手塚治虫さんは、1933年から1952年まで兵庫県宝塚市(当時は川辺郡小浜村鍋野)で過ごしました。
宝塚大劇場や宝塚ホテルなどモダンな建物や温泉街もあった当時の宝塚ですが、それ以外は山や川や林が広がる自然の宝庫でした。

昆虫に興味を持ち、昆虫採集に明け暮れる手塚少年。
珍しい昆虫を見つけると、宝塚ファミリーランド内にあった昆虫館に持って行くほどでした。

小学5年生の時、本名の“治”に“虫”を付け、それが生涯のペンネームとなったのは、宝塚の豊かな自然ゆえのことでしょう。

“タカラジェンヌ”ではなく“ヅカ・ガール”と呼ばれていた時代。
宝塚駅からほど近い御殿山は「歌劇長屋」と呼ばれるほど、宝塚の生徒の家が多い場所でした。
手塚家の隣には、当時のスターらが師と仰ぐ大スター・天津乙女さん、妹の雲野かよ子さんが住んでいらっしゃいました。

宝塚が身近にあり、宝塚がお好きだったお母様に連れられて観劇し始めた手塚さんも、幼い頃からすっかり宝塚ファンに。
今では客席の多くを女性が占めていますが、当時は家族ぐるみで…や、男性のお客様も多かった時代。学校で宝塚の話題が出るのも不思議ではなかったことでしょう。

リボンの騎士日本におけるストーリー少女漫画第一号となり、後々の少女漫画に大きな影響を与えた「リボンの騎士」は、宝塚のイメージから生まれたのは有名は話です。

宝塚の影響で、手塚少年は舞台役者にも興味を持ち始めました。
小学3年生の時の学芸会。衣装に困った少年らは、何と宝塚歌劇団の衣装部さんに衣装を借りに行くという大胆な行動に。今では考えられないことですが、衣装部さんも衣装を貸してあげたのです。
大阪大学付属医学専門部に入学した後も学生劇団学友座へ所属するなど、演劇への熱は続きました。

1946年「マアチャンの日記帳」(毎日小学生新聞)で漫画家デビューした手塚さん。
1947年より、宝塚歌劇団の機関紙「歌劇」や「寳塚グラフ」で、宝塚に関する漫画を書き始めます。
手塚さんを起用したのは、当時宝塚歌劇団で機関紙の編集者をしていた岩谷時子さんでした。

漫画のタイトルは——「ファインロマンス」「マノン・レスコオ」「バラ合戦」「THE・MAN」「百年后の宝塚見学」「思ひ出のアルバム」「HAPPYNEWYEAR」など。
半自伝的漫画「がちゃぼい一代記」には、宝塚に対する当時の思い出が描かれています。

医学生と漫画家、東京と宝塚の二重生活を送る手塚さん。
医者になるか、漫画家かになるか……「あなたが一番好きなことをしなさい」というお母様の言葉により、手塚さんは、メスではなくペンを選びました。