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江戸時代の「歴史は大奥でつくられる」 大奥バトルから新選組が成立?(2ページ目)

「歴史は夜つくられる」との名言がありますが、江戸時代の「歴史は大奥でつくられる!」歴史の表舞台と『大奥 第一章』の意外な関係とは?

黒田 昭彦

執筆者:黒田 昭彦

ドラマガイド

将軍以外の男がすべて立入禁止だったわけではない

場所としての大奥が本丸の奥に作られたのは1607年。その後、大奥は二の丸、西丸にもつくられ、将軍が本丸ではなく二の丸、西丸に住んでいる場合もありその場合はそれぞれの大奥が機能します。

しかし、最初からあのような大奥だったわけではなく(お江与の尻にひかれていた秀忠には不要のものですから)、1618年に大奥法度ができ、将軍以外の男が立ち入れなくなります。それも完全に立ち入り禁止ではなく、医者は絶対に入らないとしょうがないし、時代によって親戚の子や大奥に親戚のいる御三家、譜代の大名はよかったようです。

そして家光の時代に春日局が世継ぎをつくるために、ドラマのように側室をそろえて大奥の基本形が確立します。四代将軍・家綱は病弱だったので大奥は役に立たず、五代将軍・綱吉あたりでほぼ大奥は完成します。


女帝誕生は幕府の圧力

おふくが春日局になったのは、1615年の禁中並公家諸法度に始まる徳川幕府の朝廷、寺社への統制政策が絡んでいます。

1629年の紫衣事件は、朝廷の認可事業だった高僧の印である紫の衣を着るのを認めることを、幕府の認可に変更、これに大徳寺が反発し独自に紫衣を認めた事件で、この罰として漬け物で有名な沢庵和尚らが流罪になりました。

この事件の収拾のため家光はおふくを名代として朝廷に派遣。しかしおふくは無位無冠で天皇に拝謁できる立場になく朝廷は反発したのですが、幕府はこれをごり押しして、天皇から春日局の名前を賜ったのでした。

この一連の事件から後水尾天皇は退位、徳川家から嫁いだ和子の間には女子しかいなかったため、女帝・明正天皇が誕生したのでした。


 幕府の動き大奥の動き
1600関ヶ原の戦い 
1603家康、将軍になり江戸幕府を開く秀忠の長女・千姫、豊臣秀頼と結婚
1604 竹千代(家光)が生まれ、おふく乳母になる
1605秀忠、将軍になり家康は大御所に 
1606 国松(忠長)が生まれる
1607 大奥、江戸城につくられる
1611 秀忠の隠し子(後の保科正之)生まれる
1612キリスト教禁止竹千代・国松の世継ぎ争いピークに
1614大坂冬の陣 
1615大坂夏の陣、豊臣氏滅亡/禁中並公家諸法度制定 
1616家康没 
1618 大奥法度制定、表の世界と分離
1620 竹千代元服し家光に/家光の妹・和子、後水尾天皇に嫁ぐ
1623家光、三代将軍に。秀忠は大御所に 
1625 家光・孝子結婚
1626 お江与没
1629紫衣事件、以後朝廷・寺社統制の徹底おふく、家光の名代として和子に面会、天皇より春日局の名を賜る
1632秀忠没/忠長、高崎に改易 
1633忠長自殺お楽、大奥入り
1635参勤交代制確立 
1636保科正之、家光から実弟として認められ山形藩20万石を与えられる 
1637島原の乱お夏、大奥入り
1639鎖国体制完成お万、大奥入り
1643保科正之、会津23万石に春日局死去
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