閉ざされたコミュニティー
大規模マンションに併設された大きな公園 |
安全意識が高いためか否か、小さな子どもが自転車に乗るときは、車で公園へ自転車を運び、乗り方の練習をさせる親もいる。子どもが多い街であるゆえに、不審者の監視も町じゅうを挙げて励行する。お母さんの買い物はなるべく子どもたちの下校時間に合わせましょう、外出時はPTAが配布した腕章をつけましょう、というお触書が学校から届く。子どもたちの安全は保護者と学校との連繋で守る、という意識が徹底しているようだ。
一方で部外者への視線は、あからさまに無礼ではない程度に冷たい。大規模な公園では、時間帯によってそこにいる人々がくっきりと分かれているが、日中は乳幼児とその親(ほとんどが母親)が「公園社交」に励む。一度、その中に障がいを持つ、体格の大きな子どもが母親と一緒にやって来て、遊具で遊び始める場面に立ち会ったことがあった。引き潮のように、周囲から小さい子どもも母親たちもいつの間にかいなくなる。「違う」ことへの過敏なアンテナは、時としてむごい。
これだけ子どもが多ければ、受験熱、子ども同士のトラブル、そして思春期の子どものトラブル、モンスター親など、現代的な子育ての問題が噴出するのは、ご想像の通り。東浩紀氏が、自身の子ども時代を過ごした東急田園都市線の青葉台(横浜市青葉区)という街を指して言う「思い込みの激しい人が多い」「共同(セキュリティ)幻想のテーマパーク」という表現が、この町にもフィットしている。
「ニュータウンの絶望」
ひな壇造成。またここに「素敵な家並み」が建ち上がる |
上京し、似通った条件の比較的豊かな家庭ばかりの中で、できるかぎりの教育環境を子どもに与え、手塩にかけて子育てをしたい、と願う人は実際に多い。厳しい言い方をすれば、それが「アッパー」で「正しい」暮らし方だと思っている人も、確かに多いのだ。そして、その価値観を肯定する社会構造上の圧力も、日本には厳然として存在する。
都心から離れ、広大なニュータウンが造成されているところに出かけたことがある。山脈のようにそびえる大規模マンションの群れ、容赦なく切り崩された荒涼とした空き地、ペラペラで安い建材を積み上げた、パステルカラーの町並み。高々と掲げられたファミレスや安売り店のサインが立ち並ぶ大通り。その中に、ベビーカーを押した若い母親達がパラパラと歩いている。
こんなに資金と労力を投入して、こんな無味乾燥の「団地」がここに造られているという現実に、そしてこんなに大量の「よく似たサラリーマン家庭」が存在するという事実に、私はかすかな絶望を感じた。もちろん、郊外とはかつて文人などの高等遊民が都心から移り住んだ世田谷・田園調布あたりの避暑地的な意味とはまるで違う、労働者のベッドタウンであることを重々承知だったにせよ。
ル・コルビュジエが、近代の住まいの在り方として「団地」の原型を提唱したというのはあまりにも有名だが、それは労働者層の住居へのニーズを垂直方向に吸収する手段だった。マンション住まいの私だが、時々それを身にしみて感じさせられる。