リタリン普及の裏に……
1996年頃にリタリンはADHD治療薬の代名詞と認識され、ADHD児の増加とともに困った子どもを治療する手っ取り早い方法としてあまりにも安易に、爆発的に広まっていきました。しかし、リタリン普及は自然なものとは言い難い側面もあります。アメリカには多動児を持つ親たちのための機関として、Children and Adults with Attention Deficit Disorders(CHADD)というNPOがあります。1987年に創設されたCHADDは1991年から1994年までの間、チバガイギー社からおよそ90万ドル(約1億円)の資金援助を受けていたことが指摘されました。
CHADDはADHD治療の中でもリタリンを最も効果のある薬品として扱い、不安を抱えるADHD児の親たちに啓蒙活動を行ってきました。また、ADHD児の増大が懸念された頃には、このままではリタリンの流通量が不足すると議会に訴えかけた事実もあります。このようなCHADDの姿勢が、ADHD児治療の現場とリタリン消費量の増加に与えた影響は、決して少なく見積もることはできないでしょう。
銃乱射事件とリタリン投与の関係
そして1999年、決定的な事件が起きます。コロンバイン高校の銃乱射事件で、犯人の一人である18歳のエリック・ハリスにルボックス(セロトニン抑制剤)の服用歴が明らかになったのです。彼は服用を始めた後に有害な幻覚が見え始めたことを認めました。その少し前にもジョージア州の高校で、15歳の少年T.J.ソロモンが銃で6人のクラスメートに発砲、重軽傷を負わせた事件がありましたが、この少年もリタリンを服用していたことが分かりました。学校内での銃乱射事件が多発した1999年以降、その事件を起こした少年達の多くが事件以前から何らかの学習機能上の障害を持つと診断され、投薬を受けていたことが分かったのです。
これを受けコロラド州は、1999年、正確かつ厳密な検査を伴わずして診断されたADHD児へのリタリン投与を禁止します。子どもたちへの安易なADHDのレッテル貼り、そして大人にとって手っ取り早いだけのリタリン投与が、子どもたちにとって、そして社会にとっても大いに危険であるという判断でした。
少年達の事件とリタリン服用、そしてADHD児との関係は決して簡単に解ける問題ではないでしょう。しかし、その頃米国を覆っていた「困った子どもイコール多動。だから薬で落ち着かせる」というあまりに安直なやり方を見直すきっかけとなったのは確かです。それまでは、「あなたのお子さんはクラスに迷惑をかけるので、ADHDを認めるか、それとも学校を退学するかどちらかを選んでください」などという学校の対応が横行していました。多くの親たちが、その二者択一の前で悩み、結果として望まないリタリン投与を選んだことは否定できません。
その後、「仮にその子どもがADHDだとしても、それは訓練を受けた学校スタッフの余裕ある、きめ細かな教育姿勢で対応していく」という潮流が少しずつ認められるようになりました。