比較を排除した教育の弊害
でも、「子どもを比べる」ということは、本当にいけないことなのでしょうか?「比較は悪だ」、そういう考えがいつの間にか一人歩きして、いつしか「競争は悪だ」に変身し、運動会の徒競走で、みんなで手をつないでゴールするなんてことが教育の現場で実際に起こるようになってしまいました。運動の苦手な子ども、かけっこの得意な子ども、色々いる中で、スタートからそれぞれ走ってきてゴール間近で足並み揃え、みんなで順位のない「平等なゴール」。確かに「結果は平等」ですが、これで子どもは何を得るのでしょう?「どうせ結果はみんな同じなら、先生が『よーいドン!』って言っても一生懸命走る必要はないよね」、きっと頭の回転の速い子どもなら、すぐに気がつくことでしょう。
「比べてはいけない」「差をつけてはいけない」「格差は悪だ」と敏感になってしまった社会は、究極的には個々の子どもの持ち味を殺してしまい、努力なんかしても実らない、始めから結果の決まっている社会をもたらします。もはや空論と化した「競争の排除」が「悪平等」を生むのです。
「機会平等」と「結果平等」の混同
平等という言葉は、戦後の日本人のメンタリティーを支えてきた言葉です。貧富や男女、出身など、決して平等などではなかった社会だったからこそ、社会の理想として掲げられてきた言葉です。しかし、その耳障りの良さから皆に愛された「平等」は、いつしか本来の意味を失い、ただの「みんないっしょ」と同義の、スカスカの言葉になってしまいました。日本が貧しかった時代、もともとの「平等」が持っていた意味とは、「機会平等」です。貧富や男女や出身などに関わらず、どんな人にも同じチャンスが与えられるということです。しかし、スカスカになってしまった豊かな現代の「平等」は、「結果平等」と呼ばれます。チャンスやプロセスは全く関係なく、とにかくみな一律に同じ結果だけを手に入れるということです。
例えるなら、全員に作文コンテストの参加資格が与えられるのが「機会平等」、名前だけ書いて提出しようが、お父さんに書いてもらおうが、三日三晩寝ずにうんうんうなって渾身の大作を提出しようが、みな同じく大賞をもらえるのが「結果平等」です。