“全て”が生まれるベントレーの聖地
イギリス中部の小都市クルーにあるベントレー本社工場 |
オブジェなどがベントレーの歴史を刻む |
街へ入ってすぐ、工場のエントランスビルディングが見えてきた。建物の前には最新のアウディがずらりと並んでいる。社員や幹部のカンパニーカー。もちろん、現在、ベントレーの“親”がアウディだからである。
正面エントランスを入ると、有名なオブジェが目の前に鎮座する。ロイヤルアカデミーデザイン作。英国産オーク材の台座に載る銀と青と緑はそれぞれ、スピットファイアのプロペラ、ロールスロイスのスピリットオブエクスタシー、ベントレーのウイングを表現するもの。1938年に建設され現在に至るクルー工場が、数々の困難を乗り越えると同時に数多くの栄光を獲得し、歴史を深く刻み続けてきた、その象徴だ。
およそ65エーカーの敷地内に、アッセンブリーライン(アルナージ系、コンチネンタル系両方とレザー関係)を収めたメインビルがあり、取り囲むようにしてウッドパーツショップやエンジン組み立て、プロトタイプ製作などが入る建物が配置されている。さらにそれらを囲んでペイントショップや品質管理部門、デザイン部門、そして特別仕様専用工房“マリナー”が置かれているのだ。さらに現在('09年1月末)、大規模なボディ工場が敷地内において建設中である。
つまり、ベントレーの“全て”がここから生まれる。フェラーリのマラネッロと並んで、正真正銘の聖地であると言えそうだ。
クルーのあるサウスチェシャー地方では一番大きな工場らしい。'98年にロールスロイスモーターカーズ社がVWグループの傘下となり、ベントレーブランドとクルー工場がドイツの巨人に託されたわけだが、'00年にはまだ従業員1800人、年間生産台数1800台(ロールスロイスとベントレーを併せて)という規模にすぎなかった。
それが今では同じ敷地内で実に4000人が働き、生産台数も'07年にはついにベントレー単独での大台突破、1万台強に達した。もちろん、リーマンショックのあった'08年、そしてさらなる景気後退(イギリスは特にひどい)が進行中の'09年は1万台を大きく割り込むが、彼らとしてみれば1万台が上出来過ぎた。今のところ、レイオフなど労働者削減にまでは至っていないようだ。
ベントレーブランド躍進の主役は、もちろん'02年に生産が始まり、2ドアクーペ、4ドアサルーン、ドロップヘッド、そしてそれぞれに高性能版のスピードと、そのバリエーションを順調に増やしてきたコンチネンタルシリーズである。VWはフラッグシップモデル、アルナージ系のリエンジニアリングはもちろん、新世代コンチネンタル系生産のために50億ポンドもの投資を、クルー工場に対して実施していた。
まるで地図記号のようなクルー工場メインビルには北向きのスカイライトが配されていて、1日中陽が絶えない明るい職場になっている。街に隣接するうえ文化遺産として保護されているから、これ以上の増設は許されず、生産台数も'07年の1万台がほぼマックスだったという。エンジニアリング担当のボードメンバーでありクルー工場を総括するウルリッヒ・アイクホーン博士曰く、「需要以上に生産する必要がないのもベントレーらしさ」。聖地が自然とそれを望んでいるとも言えるだろう。
工場の内部については次ページで