完璧な案内人
それが夢であろうと幻であろうと、美咲は旅の思い出に、この偶然に身を任せたら、どこへ行き着くのか、ちょっとだけ試してみたくなった。美咲は目の前に停まったブラックキャブを無視して、青年に向かって答えた。
「そうね、歩かなくちゃね。せっかくロンドンを旅してるんだから」
美咲は、並んで歩く青年 (アレックスと自己紹介した) を横目でそれとなく観察した。たぶん、自分よりだいぶ若い。服装は質素だけれど清潔感がある。よく気がつくタイプで、美咲がイルミネーションや、ショーウィンドウに気を取られて、歩くペースが落ちると、彼も合わせて、ゆっくり歩いたり、立ち止まったりした。それも、美咲に気づかれないように、さりげなく調子を合わせているという感じだった。
レスター・スクエアから、10 分ほど歩くと、ブティックなどが軒を連ねるおしゃれな一角にさしかかる。
「ここがコベント・ガーデン。映画の『マイ・フェア・レイディー』で有名ですよね」
アレックスのガイドぶりは、なかなかのものだ。
『マイ・フェア・レイディー』に出てくるコックニーや、クイーンズイングリッシュのことを説明しながら、アレックスは、コベント・ガーデンの中心部にあるマーケットに美咲を案内してくれた。その界隈では、何百もの出店が立ち並び、雑貨や小物類を売っていた。そして、大道芸人やミュージシャンが思い思いの芸を披露していた。美咲は、博識で、それでいて心優しい青年に好意を持ちはじめていた
コベント・ガーデンを見物した後、レストランやバーの並ぶ一角を北に向かって歩くと、目の前に巨大な建築が見えてきた。アレックスが言った。
「さぁ、着きましたよ。あれが、大英博物館」
それは、別れの挨拶でもあった。それまでの時間が楽しかっただけに、美咲は、彼と別れるのが名残惜しかった。そんな美咲の気持ちを察したように、アレックスが言った。
「もしよろしければ、中もご案内しましょうか?」
美咲は、素直に微笑み、うなづいた。