琉球ガラスの功労者はコカ・コーラ
コカ・コーラのビンから琉球ガラスが生まれました |
1951年(昭和26年)、コカ・コーラが正式に沖縄の民間市場で販売されることが決まりました。本土でコカ・コーラの民間販売が認可された1957年より6年早くスタートしています。
そして1958年(昭和33年)、沖縄では10年続いた法定通貨のB円が撤廃されてドルとなります。ちょうど飲料水の販売競争が激化していた頃で、ビンの保証金を事前に取るコカ・コーラのシステムが、弱みになりつつありました。
沖縄だから出来たビッグプロモーション
コカ・コーラはコーラ戦争に勝ち抜いて今に至ります |
本土でも他メーカーとの競合時代に突入しており、これに対抗するため1967年にボトラー体制が確立され、全国16のボトラー会社で構成される日本コカ・コーラボトラーズ協会が発足していた時期です。
1969年、沖縄コカ・コーラは売上げ増強のために前代未聞のビッグプロモーションを実施しました。コロナマークツー、カラーテレビ、冷蔵庫などが当たる抽選会です。
当時の県民人口は100万人。応募数もまた100万枚となり、大評判を呼びました。その後も、本土復帰前にモーターボートや車が当たる大規模プロモーションを実施しています。
当時、日本では高額商品を提供するセールスプロモーションは法律上不可能だったため、本土では実施されていません。
そして本土復帰
1972年。沖縄は本土に復帰します。法定通貨はドルから日本円となりました。当時の交換レートは1ドル305円だったそうです。沖縄コカ・コーラでは、夜を徹しての突貫作業で約1200台の自動販売機を円仕様に交換し、復帰に間に合わせたといいます。本土復帰と同時に沖縄コカ・コーラは17番目のボトラーとして日本コカ・コーラボトラーズ協会の一員となりました。
前後して、あれほどひしめき合っていた他のコーラたちは姿を消していきます。もちろん今も沖縄では、本土の人が名前を聞いたこともない格安の輸入コーラが販売されていますが、コカ・コーラの圧倒的な強さには勝てないようです。