沖縄の観光・旅行/沖縄のグルメ

沖縄コカコーラ誕生秘話(2ページ目)

日本最南端のコカ・コーラ自動販売機はどこにあるかご存知ですか? 竹富町の「仲底商店」です。沖縄のコカコーラは本土と少し違った歩みをたどっています。コカコーラの歴史を通して沖縄を振り返ってみましょう。

執筆者:鈴木 雅子

琉球ガラスの功労者はコカ・コーラ

沖縄コカ・コーラの歴史
コカ・コーラのビンから琉球ガラスが生まれました
コカ・コーラの流通に伴って発展したのが廃ビンを利用してのガラス製品です。当時、コカ・コーラのビンは現在のグリーンっぽいものではなく無色透明だったので原料として利用しやすく様々なガラス製品が生み出していきます。これが「琉球ガラス」の始まりだということは皆様もご存知ですよね。つまり、沖縄を代表する民芸品「琉球ガラス」発展の功労者はコカ・コーラであるといっても言い過ぎではありません。

1951年(昭和26年)、コカ・コーラが正式に沖縄の民間市場で販売されることが決まりました。本土でコカ・コーラの民間販売が認可された1957年より6年早くスタートしています。

そして1958年(昭和33年)、沖縄では10年続いた法定通貨のB円が撤廃されてドルとなります。ちょうど飲料水の販売競争が激化していた頃で、ビンの保証金を事前に取るコカ・コーラのシステムが、弱みになりつつありました。

沖縄だから出来たビッグプロモーション

沖縄コカ・コーラの歴史
コカ・コーラはコーラ戦争に勝ち抜いて今に至ります
売り上げが後退するなかでファミリーサイズの投入やファンタオレンジの販売などに乗り出し、1966年にはある程度回復しましたが、コーラ類だけでもミッションコーラ、ミスターコーラ、RCコーラ、ラッキーコーラ、ダブルコーラ、ボンコーラなどがひしめき合う状態でした。

本土でも他メーカーとの競合時代に突入しており、これに対抗するため1967年にボトラー体制が確立され、全国16のボトラー会社で構成される日本コカ・コーラボトラーズ協会が発足していた時期です。

1969年、沖縄コカ・コーラは売上げ増強のために前代未聞のビッグプロモーションを実施しました。コロナマークツー、カラーテレビ、冷蔵庫などが当たる抽選会です。

当時の県民人口は100万人。応募数もまた100万枚となり、大評判を呼びました。その後も、本土復帰前にモーターボートや車が当たる大規模プロモーションを実施しています。

当時、日本では高額商品を提供するセールスプロモーションは法律上不可能だったため、本土では実施されていません。

そして本土復帰

1972年。沖縄は本土に復帰します。法定通貨はドルから日本円となりました。当時の交換レートは1ドル305円だったそうです。

沖縄コカ・コーラでは、夜を徹しての突貫作業で約1200台の自動販売機を円仕様に交換し、復帰に間に合わせたといいます。本土復帰と同時に沖縄コカ・コーラは17番目のボトラーとして日本コカ・コーラボトラーズ協会の一員となりました。

前後して、あれほどひしめき合っていた他のコーラたちは姿を消していきます。もちろん今も沖縄では、本土の人が名前を聞いたこともない格安の輸入コーラが販売されていますが、コカ・コーラの圧倒的な強さには勝てないようです。
  • 前のページへ
  • 1
  • 2
※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。

あわせて読みたい

あなたにオススメ

    表示について

    カテゴリー一覧

    All Aboutサービス・メディア

    All About公式SNS
    日々の生活や仕事を楽しむための情報を毎日お届けします。
    公式SNS一覧
    © All About, Inc. All rights reserved. 掲載の記事・写真・イラストなど、すべてのコンテンツの無断複写・転載・公衆送信等を禁じます