■はじめての風水見は、難破船で漂着した中国人
「琉球国由来史」(1667-1671年)によりますと、福州に留学した周国俊という人が、かの地で風水を学び、これが琉球での「風水見の始まり」であると記されているそうです。
しかし、都築教授によりますと、石垣島の「ハンナ大主墓碑」に、「古波蔵親雲上(コハグラペーチン)に墓地の風水をみてもらった」という記述があるそうです。1660年以前のことです。
この古波蔵親雲上さん、実は中国拙江省の人で、本名を楊明州と言います。1642年、マニラに向かう中国の船が漂流し、28日間ただよった末に石垣の川平湾にたどり着きました。
漂着した中国人の楊明州さん、のちの古波蔵親雲上の乗っていたこの船は、倭寇、つまりは日本に襲われたようです。
船が他国に漂着したときは、どこの国でも面倒を見て、祖国に送り返す世話をするのが当時の慣習だったのですが、どういうわけか楊明州さんは、一緒に乗っていた同郷の張五官さんという人たちとそのまま石垣に住み着いてしまいます。
これについて都築教授は、貿易の中継地なり取引先なり、新たな寄港地(利権)を得るための拠点にしようと思ったのではないかとおっしゃいました。のちに彼らは、久米村に招かれて、儒学の先生になっています。
■琉球王朝の名政治家は風水師だった
中国留学を盛に行なっていた久米村では、先に紹介した周国俊さんだけでなく、当時の首里王・尚貞の命令により蔡応瑞という人も銀30両を与えられて福州に留学、儒学だけでなく風水を学びました。
帰国後の1685年、彼は伊是名島の風水を見て、1688年には伊是名島玉御殿を風水にかなった景観に修復しています。
これは非常に重要なことです。なぜならば、伊是名島の玉御殿とは首里王家発祥の地の墓地です。個人に頼まれての風水見とはわけが違いますよね。
1700年、1800年代は、風水を学ぶ目的の中国留学が相次ぎます。王府から久米村には「風水の法を学んで、国用(国家事業)に役立てるよう」との布達が出されているほどです。
必然的に久米村は、風水見、地理師、陰陽師分野の技術を独占することになっていきます。そして蔡温さんの登場です。
蔡温さんは中国から帰化した人の子息でした。彼は、琉球時代の名政治家として名を馳せた人ですが、同時に風水師(ふーしみー)でもありました。
ところで、この時代の日本は鎖国に入っています。日本が鎖国している間にも、琉球は中国を師匠としてずっと学び続けたわけですね。
蔡温さんは、中国留学の際、譲り受けた秘伝の風水書と風水を見るための羅盤を譲り受けて持ち帰っています。31歳のときに彼は、当時王子だった尚敬王の国師(先生)となりました。住居も首里に移し、政治のプレーンとして活躍しだします。
1713年、蔡温さんは首里城、国廟(祟元寺)、玉陵(玉御殿)の風水を見ます。
これは、風水が時の政権の中枢部に深く関わっていた証拠ですね。そして1728年、蔡温さんは47歳で三司官(宰相の地位)に任命されます。