中国で生まれた「風水」が日本でブームとなり、いまでは「幸せグッズ」「開運グッズ」という形で定着しています。金運は黄色、というふうに、主に「色」と関連付けられ、室内インテリアにも、風水で良いとされる色を取り入れるのが当たり前となりました。
中国文化の影響が濃い沖縄には、当然ながら早くから風水思想が根付いており、風水師は「ふーしーみ」(風水見)と呼ばれています。琉球王朝時代に首里王府の政策として取り入れられていたほどで、政治や暮らしと密接に絡んでいたのです。
2003年12月13日、具志川市立図書館で瀧谷大学教授の都築晶子さんを招いて「琉球の風水~その受容と展開~」という文化講座が開催されました。都築教授の専門分野は中国中世史、中国六朝時代の宗教と社会、道教史、風水史などです。
今回は、都築教授の講座で伺ったお話のなかで、「!」という内容を私なりに解釈して簡単にご紹介いたします。沖縄理解の一助にしていただけましたら幸いです。
■久米村の?人(びんじん)36性
■はじめての風水見は、難破船で漂着した中国人
■琉球王朝の名政治家は風水師だった
■風水を技術的に活用して国づくり
■風水とスローライフの共通点
■久米村の?人(びんじん)36性
14世紀頃の琉球は、朝貢体制のもと、つまりは中国(明朝)容認のもとで中継貿易を行なっていました。
中国の産物をマニラ、インドネシア、スマトラなどの東南アジアや日本に、あるいは日本の商品を中国や東南アジアにというふうに、直接貿易ではなくて、いろいろな国の商品を取り持つことで栄えていたのです。
貿易に必要なものは船、そして航海術です。海外貿易ですから外交官や書記官、通訳官も必要です。そこで久米村(那覇市)に?人36性(福健省)を招いてこれらの任にあたらせました。
ここでいう36姓とは、36人とか、36の姓という意味ではありません。大勢という意味です。ちなみに、福健省は風水の本場です。
ところが、15世紀後半になると当時の明朝に内戦が起こり衰退してゆきます。こうなると海外貿易どころではありません。しかも倭寇(日本の海賊)がはびこり、海の安全がおびやかされるようになりました。
海外貿易に欠かせない中国系の人たちが住む久米村も凋落し廃墟となってしまいます。?人たちは祖国に帰ったり、琉球人と婚姻し分散していきました。
このような状況下にあった1609年、琉球は薩摩の侵略を受けました。そして1643年、明朝が滅んで清朝の時代となります。裏では薩摩が糸をひいていたのかも知れませんが、琉球王府は清朝との貿易再建のために、久米村の再建を試みました。
各地に離散していた?人、あるいはその子孫、船が難破して漂着していた中国人や、中国語に堪能な日本の商人などを集めて、再度、村を立て直したのです。
久米村では儒学教育が行なわれ、また、有能な師弟には奨学金を持たせて中国留学に送り出しています。