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歴代天皇の位牌を祀る「皇室の菩提寺」とは

皇室が神道であることは一般的に知られていますが、実は歴代天皇の位牌を祀る「泉涌寺」というお寺が、京都にあります。皇室の菩提所は今も「御寺」と呼称され厚い信仰を集めています。江戸時代後期まで、天皇の葬儀も仏教で執り行われる時代が長く続いていました。

吉川 美津子

執筆者:吉川 美津子

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皇室が神道であることは一般的に知られていますが、歴代天皇の位牌を祀るお寺が京都にあります。神道と仏教が今のようにはっきり分離されたのは明治に入ってから。皇室の菩提所は今も「御寺」と呼称され厚い信仰を集めています。

神道と仏教の歴史を振り返りながら、皇室の葬送の歴史についてご紹介します。
   

神道とは日本人が創り出した神々を信仰したもの

神社では祭祀の対象となるものを御神体と呼びます

神社では祭祀の中心となるものを御神体と呼びます。三種の神器(神鏡・勾玉・剣)も御神体です。

仏教はお釈迦様の教えを弟子達が広め、さらにその弟子達が広め……、と教えが伝わっていく宗教ですが、神道はちょっと意味が違います。
神道が祭祀する対象は、その神社によって異なります。海の神様だったり、山の神様だったり……、また石の神様や火の神様もいます。「八百万(やおろず)の神々」という言葉があるように、日本人はたくさんの神々を創造してきました。普段の生活の中で自然に発生した信仰が神道といえるでしょう。

自然発生の民族宗教ですから、儀礼や決まりごとも土地柄によって、神社によってさまざまです。これを体系化していったのが吉田兼倶(よしだかねとも・1434~1511)。以降吉田家の子孫は吉田神道といわれるようになり、江戸時代には神社に神位を授けたり、神職の位階を授ける権限を与えたりする力を持つようになりました。
 

江戸時代には神社の神職も仏教式の葬儀を強いられていた

江戸幕府はキリシタン禁制を名目に、寺が戸籍を管理するシステムを法令化します。これを寺請制度といい、寺と檀家の関係が法的に制度化されるようになりました。以降、結婚や移転をする場合だけでなく、旅行や移転、奉公の際にも役人が発行する書状のほかに寺が発行する書状が必要となってきます。寺請制度によって寺は幕府や藩の行政の一部を補う役割を担っていくようになります。

しかし、ここで問題が発生します。寺請制度では、たとえ神社の神職(宮司など)であろうと寺に属さなければいけない決まりがありました。つまり、神職も仏式葬儀を強いられることになります。神社側は江戸幕府に神葬祭の許可を求めましたがなかなか認められず、結局最終的に「吉田家から葬祭免許状を得た神職当人と嫡子のみ」の許可が得られたのみとなりました。
 

明治維新で神道が国教化

幕末になると、尊皇攘夷運動が盛んになり、復古神道が叫ばれるようになります。
さらに明治維新になると王政復古の大号令が下され、廃仏希釈(はいぶつきしゃく)運動が相次ぎました。
こうした政府のバックアップ体制によって神道は国教となり、神道墓地も整備されるようになりましたが、それでも神葬祭は大きな広がりをみせませんでした。それは、江戸時代から続く檀家制度はすでに確立し、政府が変わったくらいでは崩すことができないほどの基盤ができあがっていたからです。
 

天皇の葬儀も仏教の時代が長かった!

天皇の葬儀も江戸時代まで仏式で行われていました
天皇の葬儀も江戸時代まで仏式で行われていました。京都の泉沸寺には歴代天皇の位牌が祀られています。
今でこそ天皇陛下の葬儀は神道で行われていますが、日本の歴史を紐解けば、奈良時代の聖武天皇から江戸時代末期の孝明天皇まで仏式で葬儀が行われていました。

持統天皇(703年没)の葬儀では寺での読経が行われていますし、すでに出家していた清和天皇(880年没)の葬儀では、念珠を手にかけたまま火葬されたといわれています。

神式になったのは孝明天皇の三年祭から。葬儀は仏式で行ったにもかかわらず、時代が明治となったため皇室行事が神式に改まったのです。
そこから正式に皇室がイコール神道として定着するようになりました。

ちなみに古代の天皇の葬送といえば「古墳」が有名です。その頃はまだ仏教が伝来していなかった時代。祭祀といえる儀式があったか定かではありませんが、死者を安置する喪屋をつくったり料理をふるまって、八日八夜の間泣いて食べて踊ったりしながら、死を悼む儀礼を行っていたといわれています。
 

皇室の菩提所「泉涌寺」

月輪陵・月輪陵内には多くの皇族が眠っています。
月輪陵・月輪陵内には多くの皇族が眠っています。現在は宮内庁が管理しています。
天皇家とゆかりのあるお寺は数多くありますが、皇室の菩提寺としてもっとも有名なのは京都の「泉涌寺(せんにゅうじ)」です。

泉涌寺が菩提寺となったきっかけは、1242年に四条天皇の葬儀がこの寺で行われたことから。それ以降、室町時代前期の後光厳天皇から孝明天皇にいたるまで、歴代天皇の葬儀は泉沸寺で行われることになります。
また裏手の墓所は月輪陵と呼ばれ、江戸時代は陵墓として土葬されていました。

明治維新以降、月輪陵は宮内庁の管轄になりましたが、歴代の天皇の位牌や尊像は今もなお泉沸寺に祀られています。
1月7日の昭和天皇の命日のほか、大正天皇や明治天皇の命日など、歴代天皇の祥月命日には御霊祭法要が行われ、皇室の代理として宮内庁京都事務所からの参拝が行われています。
 

明治時代になるまで宮中にも仏壇があった!

宮中には「お黒戸」(黒戸御所)といわれる仏間(仏壇)がありました。そこには歴代天皇や皇后の位牌が祀られ手を合わせてお参りする習慣があったのです。
しかし、この仏壇は明治に入って泉涌寺に移されています。同時に宮中では神殿の整備がなされるようになりました。天照大神を祀る「賢所(かしこどころ)」を中心に「皇霊殿(こうれいでん)」「神殿(しんでん)」という宮中三殿がつくられ、歴代天皇の御霊も祀られています。

現在の皇族の祭祀儀礼については皇室典範に基づいて行われています。昭和天皇崩御の際は「大喪の礼」が行われましたが、今は政教分離の原則がありますので、皇室の葬儀式である「葬場殿の儀」は神道で行われ、「大喪の礼」は鳥居等を撤廃するなど宗教色をもたない葬儀となりました。

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