帰国子女としての高校生活、大学、そして就職
6年間をサンフランシスコで過ごした後、日本に帰国した大塚さん。中学2年から、横浜の公立学校に編入することになりました。帰国子女用の学校とか、アメリカンスクールなどに入る選択は考えなかったのでしょうか?「両親が私を日本の学校に入れたがったんですね。やはり日本人として育てたかったのでしょう。」
ところが、中学ではカリキュラムも違うし、日本語の障壁もあるしで苦労されたそうです。横浜で当時行われていた共通の学力テストには、体育や美術なども含まれていて、まったく違うシステムで育ってきた彼には戸惑うことばかり。
結局、普通の高校を受験するのは止めて、当時2校くらいしかなかった帰国子女向けの高校の内、東京学芸大学付属高等学校大泉校舎に入学することになりました。
ここでは英語はより高いレベルの英語を学ぶと共に、国語など、海外で育った子どもが不得意とする学科も徹底教育。同じ境遇で育った生徒ばかりなので、過ごしやすかったそうです。順調に日本風の教育システムに慣れていき、大学受験。一浪して立教大学経済学部に入学しました。
バブル時代の銀行へ就職するも2年で渡米
大学を卒業する頃は、バブル真っ只中の時代。大塚さんも大手都市銀行へ就職することになりました。1986年のことです。ところが恵まれた就職であったはずが、実際にはわずか2年で退職。「とにかく忙しすぎて、自分の時間がまったく持てないのがつらかったですね。後、結局、銀行という世界も、1年もいると、自分の先々の将来像までくっきりと見えてきてしまう。そういう決まったレールの上を歩いていくような人生が、自分には想像できなくて、飛び出しました。」
その後は、カリフォルニアに行き、カリフォルニア大学バークレー校で英語をブラッシュアップしながら、弁護士になるためにロースクールへ入学する準備を始めました。1990年にはカンザス州の大学院にて、3年間のプログラムがスタート。
「人に使われる、ということが性に合わない気がしたので、自営の専門職である弁護士を選んだんですね。ロースクールも、詰めて取りましたので、実際には2年半で卒業することができました。」
⇒ インターンのために訪れたハワイ。その後の展開は、5月7日にお届けする「後編」をお待ちください。
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