ハワイ暮らしを実現した日本人へのインタビュー、今回は、80年代後半から10年間にわたって実力派女優として活躍した相楽晴子さんの登場です。1995年にロスへ移住。結婚、出産を経て、8年後の2003年からはハワイ生活をエンジョイしている彼女にお話をうかがいました。

女優を休業して渡米、結婚、そして出産

相楽晴子
キネマ旬報賞などの受賞暦を持つ実力派女優、相楽晴子さん。
<1985年に『スケバン刑事2』でデビュー。『ADブギ』や映画『どついたるねん』など、数々のヒット作品に出演して演技力について高く評価されていた実力派女優の相楽晴子さんが、突如休業して渡米したのは1995年の暮れのこと。(相楽さんの過去の作品集はこちらを参照。)

1992年にロスで撮影した写真集『MOTHERS』の現地コーディネーターをしていたゲイリー・ヘインズ氏との運命の出会いから遠距離恋愛が始まり、その後は3年間、ファックスや電話での交際が続いた末の決意だったそうです。

「日本語のできるアメリカ人の友人に英語の手紙を添削してもらいながら、ずいぶんと英語の勉強をしました。やはり伝えたい思いがあると、人は必死になるし、よく覚えますよね。とにかくインターネットもない時代のことなので、たいへんでした。」

キャリアも積み重ね、いよいよこれからという時だっただけに、俳優の世界に未練はなかったのでしょうか。

相楽晴子さんの写真集『MOTHERS』
現在のご主人と出会うきっかけとなった写真集『MOTHERS』
「中学を卒業すると同時にスカウトされてデビューして、進学もせずに夢中で働いてきましたから、正直、疲れてもいました。小さい頃に父をなくし、家業を閉めた時に残った借金がありまして、母も兄も、そして私も、その返済のために働かずにはいられない事情があったんですね。」

普通の青春時代を過ごすこともなく20代も後半に入った頃、気がつけば、お腹の中にはゲイリー氏の子供を身ごもっていました。つわりもひどくて仕事現場でも迷惑をかけそうになり、これはもう生活に区切りをつける以外にはないと、決断もできたそうです。

ご主人の仕事を手伝い「裏方」の世界を体験

相楽晴子
今は笑い話だけれど、ロスでの生活は正直つらかったという相楽さん。
マリブのビーチでふたりだけで挙げた結婚式。でもこの後のロス近郊での生活は、正直苦痛でしかたなかったとか。もともとアメリカに行きたいと考えていたわけでもなく、たまたま好きになった人がロスにいただけという理由での渡米。英語もできず、アメリカ生活に親しめる素養を積み重ねてきたわけではなかった彼女には、言葉や文化の違いというハードルはとても高かったようです。

「病院で会計に現金をだまし取られそうになっても、文句のひとつも言えない自分の語学力のなさ。はがゆいなんてものではありませんでした。レストランでは注文を取りに来てくれないような差別にも遭遇しましたし、冷たい街の印象になじめなくて、いつも家に閉じこもっていましたね。」

そんな中で、彼女は仕事として、ご主人のアシスタントを務めていました。ゲイリー氏は日米の撮影クルーなどのコーディネーター。そして彼女は、日本の制作会社や広告会社との窓口として交渉ごとのすべてを担当していました。

「でも、やはり相楽晴子という名前で電話に出たりすると、先方もマスコミの方なので意識されてしまったりしますから、あくまでもハルコ・ヘインズという名前を通してました。で、現地入りしたスタッフと会ってから、え!?と驚かれたりして(笑)。苦情を言ってた方が、妙に恐縮したりするので、おかしかったですね。」

テロ事件を機にハワイへ移住。行かず嫌いだったハワイへの移転は、彼女にとって幸せな選択だったのでしょうか? 次のページへ。