私を産んだ母は「役に立たない嫁」
地方のある小さな町で産まれ育ったヒナさん(43歳)。祖父母は農業を営み、父は地元団体職員、母は教師だったが結婚と同時に仕事をやめた。「祖父は毎晩のように地元の飲み屋へ出かける。祖母はそれをよく思っていないけど、直接夫に文句は言えない。だから嫁である母をいびる。父はどちらの味方もせず知らん顔。そんなドラマに出てくるような典型的な三世代家庭でした。母は、私が生まれたとき『女か。役に立たない嫁だ』と祖父母に言われたそうです」
だから3歳違いの弟が生まれて、ようやく家庭内での場所が確保できたと母が語ったとき、ヒナさんは「自分は産まれなかったほうがいい存在」だと思い込んだ。
祖母にいじめられると、母はその怒りやストレスをヒナさんにぶつけた。小学校に入る前から、古い木造家屋の長い廊下や窓をきれいに磨くよう母に命じられた。
「勉強しなくていい」という祖母
「幼稚園には1年保育で入園したんですが、なぜかすぐやめたんですよね。私の記憶では、母から『明日から行かなくていいから家の中のことをやって』と。もしかしたら幼稚園に入ったのを祖母に反対されたのかもしれません。あるいは母自身、幼稚園に行かせるより家事働きをさせたほうが効率がいいと思ったのか……。幼稚園入園は父の意思だったのかも。いずれにしても今になってはわかりませんが」小学校に入ってからは、ますます家事や弟の育児を手伝わされた。学校は楽しかったが、宿題すらまともにできないこともあった。
「母も農家を手伝っていたので、私は小学校低学年から見よう見まねで夕飯を作っていました。たいしたものは作れなかったけど、ごはんを炊いて味噌汁作って、魚を焼くくらいはできたので。祖母は『女が勉強なんかしてどうなる』と母をせせら笑うように言っていました。母は大学を出て教師になっていたけど、結局、専業主婦ですからね。そんなに昔の話じゃないのに、実際にあったんですよ、こういうことが」
母が帰ってきて、あと一品作れば夕飯は完成だが、外で働く父はそれでは満足できなかったよう。たびたび「もうちょっとマシなものはないのか」と怒鳴っていた。
「いつも家の中が殺伐としていた。笑顔なんてなかった。中学生になって初めて、友だちの家で夕飯をごちそうになったとき、家族みんなが笑顔で話しながら食べているのを見て衝撃を受けました」
高校は他の場所から通いたい。痛切にそう思ったという。
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