「危険ドラッグ」とは
「SDGs(持続可能な開発目標)」というと、多くの人が「環境問題への取り組み」のことだと認識しているかもしれませんが、それは必ずしも正しくありません。国連が提唱したSDGsには実にたくさんの項目が含まれており、その中には「麻薬乱用やアルコールの有害な摂取を含む、薬物乱用の防止・治療を強化する」というターゲットもあります。このことを受けて、私はSDGsを取り上げる大学のカリキュラムの一環として、自分が専門とする薬物乱用問題を啓蒙するための授業も行っています。
その中で、私が毎回学生たちに聞いている質問の一つが、「『危険ドラッグ』とは何ですか?」というものです。薬学部の他の授業で予め学んでいた学生を除けば、正しく答えられる学生はほぼ皆無です。多くの学生は、「麻薬や覚醒剤など、危険なために法律で規制されている薬物」「健康を害する(危険性がある)薬物のすべて」「依存性が強い薬物」などと答えますが、すべて不正解です。
「危険ドラッグ」が何かを、ちゃんと理解できている人は極めて少ないと思います。正しく理解することは、日本や世界中の国々を脅かしている薬物問題の本質を認め、自分の身を守ることにつながります。今回は、「危険ドラッグ」とは何なのかを、わかりやすく解説します。
世界的脅威になっている薬物汚染の現状……麻薬や覚醒剤だけでない、新種の危険ドラッグ乱用も
いま世界中では、従来の麻薬や覚醒剤、大麻などだけでなく、新種の危険ドラッグが乱用され、たいへんな事態になっています。2023年6月25日に国連が発表した『2023年版世界薬物報告』(参照:World Drug Report 2023)によると、2021年に世界の15~64歳のうち薬物の不正使用を行った人数は2億9600万人と推計されたとのことです。対象薬物として最も多かったのは大麻、次いでコカインでした。
特にアメリカでは、本来は末期がんの激しい痛みをコントロールするために使用される正式な医薬品である「フェンタニル」という合成麻薬を、不正に過剰摂取した人が次々と死亡し、今回の報告では2021年の1年間だけで7万人以上が死亡したと伝えられています。さらに最新の情報では、2022年の1年間で11万人に達したとのことです。
想像してみてください。フェンタニルという薬の過剰摂取だけで、10万人規模の都市に住んでいる人が1年で全員消え去ったのです。信じられないかもしれませんが、これは現実なのです。
この報告の中では、得体の知れない新種の薬物が次々と登場して、世界中が脅威にさらされている実態も浮き彫りにされています。日本では、これを「危険ドラッグ」と称しているわけです。その歴史を振り返ってみましょう。
「指定薬物制度」の導入と「危険ドラッグ」という用語が誕生した背景
麻薬や覚醒剤などの多くは、もともと医療目的で開発されたものです(参考:「麻薬=違法薬物」は誤り!モルヒネやフェンタニルの正しい役割)。ところが、本来の用法や用量を逸脱して乱用されたときに、個人の健康を害するだけでなく、社会的にも悪影響を及ぼす恐れがあるため、法律で規制されるようになりました。日本では、1948年に「大麻取締法」、1951年に「覚せい剤(※現在は"覚醒剤"と変更されている)取締法」、1953年に「麻薬取締法(※法改正に伴い現在は”麻薬及び向精神薬取締法”と変更されている)」、1954年に「あへん法」が制定され、違反すると厳罰に処されます。
法律による薬物の規制は、乱用の歯止めになると期待されましたが、実際には新しい薬物に対する需要を生み出しました。「規制されている薬物に似ているけれど、化学構造が少し違う化合物」を作れば、それらは法律で規制されていないために、薬物を求める者にとっては、「新たな代替薬になる」と考えられたのです。
新しく作られた薬物が市場に出回っているのが見つかり、押収されて「乱用の危険がある」と判断されると、それは法律の対象薬物リストに加えられて規制されますが、その代わりにまた次の新しい薬物が登場するという、まさに「いたちごっこ」が始まったのです。
その対策として、日本では2007年4月に薬事法が改正され、「指定薬物制度」が導入されました。それまでの法律では、問題になりそうな薬物が出回っているのが見つかっても、それを麻薬等に指定すると決めるまでに非常に時間がかかり、正式に規制されるまでは「違法ではない」とみなされて、取り締まることができないという問題がありました。「指定薬物制度」により、これらの薬物を、従来よりも迅速に禁止できるようになりました。
まず事件の捜査上で押収されたものや、店で売られているハーブやアロマなどを行政が買い入れ、それらに入っている成分を分析します。分析の結果、法律のリストに入っていない化合物が見つかり、危険があると判断された場合には、速やかに「指定薬物」として公表し、製造・販売などが禁止できるようになりました。もし、規制後もその指定薬物の流通が収まらず、さらに規制が必要と判断されたときは、その薬物は「麻薬」に格上げされ、違反者が厳罰を受けるというわけです。
この指定薬物制度の導入によって、新種の薬物が見つかった場合に、以前より早く取り締まることができるようになったのですが、「いたちごっこ」は解消されず、むしろそのスピードが速くなりました。市場で見つかった新種の薬物を速やかに違法化すればするほど、代わりになる新たな薬物が次々と現れるという皮肉な結果となったのです。
法律の規制がない代替ドラッグは、2000年半ばごろまでは「合法ドラッグ」と呼ばれていました。まるで「乱用しても平気な薬物」と誤解されかねない状況に、行政は「脱法ドラッグ」「違法ドラッグ」といった新しい呼び名を提唱したキャンペーンを行いましたが、効果はあまりありませんでした。
そして、2012年ごろから「脱法ハーブ」と呼ばれるものを興味本位で吸引した人々が、車を暴走させて歩行者を死亡させたり、路上で人を刺し殺したり、自身が心臓発作で倒れて死亡したりするような事件が、次々と報道されるようになったのです。
以前の薬物は、一見して薬物と認識されやすい錠剤などの形で流通していましたが、「脱法ハーブ」は、薬物の粉末が植物の葉などにふりかけられており、一見しただけでは人体に使用するものとは思われないように偽装販売されていました。また中には、「バスソルト」と称する入浴剤のように見えるものや、「アロマ」と称する芳香剤のように見える形で売られているものも多数登場しました。しかもその成分は、今までに規制されてきた薬物とは異なる「未知の成分」であり、人類史上誰も摂取したことがないものが何の説明もなく添加されているわけですから、危険極まりないものでした。
その危険性を啓蒙するために、厚生労働省と警視庁が新しい呼び名を募集し、2014年7月に誕生したのが「危険ドラッグ」という言葉です。つまり、「危険ドラッグ」は、「危険性があるにもかかわらず、既存の法律の規制対象となっていないもの」を指すのです。すでに法律で規制されている麻薬、覚醒剤、大麻などは、危険ドラッグではありません。
危険ドラッグは、まだ誰も使ったことがない新種の化合物です。それを誰もが簡単に入手できる形でばらまくことは、「人体実験」もしくは「テロ行為」と言っても過言ではありません。また、そんなリスクの高いものを軽い気持ちで試してみるというのは、自殺行為に他ならないのです。
危険ドラッグが招いた事件・事故に奪われた命も
2012年10月、愛知県春日井市で、ハーブを吸引して乗用車を運転した男が、自転車で横断歩道を渡っていた女子高生をはねて死亡させるという、痛ましい事件が起きました。男が吸ったハーブから検出されたのは、MAM-2201という新種の危険ドラッグ成分でした。
大麻に含まれるテトラヒドロカンナビノール(THC)という化合物は、幻覚作用を示し、大麻吸引により生じる様々な症状に関与していると言われています。大麻そのものは「大麻取締法」で規制されていますし、THCという化合物は「麻薬及び向精神薬取締法」における「麻薬」として規制されていますから、これらをみだりに扱うことは違法です。そこで、THCに似ているけれども厳密には少しだけ化学構造が違うので規制対象外となる薬物が作り出され、「合成カンナビノイド」と言われて、危険ドラッグ製品として出回るようになりました。
MAM-2201も合成カンナビノイドの一種です。
少し専門的になりますが、もともとは、大麻に含まれるカンナビノイドを研究する一環で、アメリカ国立薬物乱用研究所の資金援助を受けて、アメリカのクレムゾン大学のジョン・ウイリアム・ハフマンが化学合成によって作り出した「JWHシリーズ」という新規薬物群がありました。THCそのものを合成するのは、けっこう難しいのですが、JWHシリーズのうち、JWH-161という化合物は、THCにインドールと呼ばれる構造を加えたものでした。さらに、JWH-018という化合物は、JWH-161よりも化学合成しやすい「ナフトイルインドール」という構造に置き換えられたものでした。誰が勝手に製造・流通させたのかは明らかにされていませんが、日本国内でもJWH-018を含んだ危険ドラッグ製品がたくさん出回っているのが見つかり、JWH-018は「指定薬物」とされた後、2012年からは「麻薬」として規制されることになりました。すると今度は、JWH-122という、また少し化学構造が変わったものが含まれた危険ドラッグ製品が出回っているのが見つかり、JWHも「指定薬物」とされた後、2013年3月から「麻薬」とされました。
一方、アメリカ・マサチューセッツのノースイースタン大学のマクリヤンス・アレクサンドロスが研究目的で作った合成カンナビノイドが「AMシリーズ」として知られ、その代表にAM2201という化合物がありました。化学構造をみると、AM2201は、上で説明したJWH-018にフッ素が加わったものです。そして、やはり誰が製造・流通させたのは不明ですが、知らぬ間にAM2201を含んだ危険ドラッグ製品が日本国内で出回っているのが見つかり、AM2201は「指定薬物」とされた後、2013年4月から「麻薬」とされました。
そして、JWH-122とAM2201が摘発されたのとほぼ同時期に、JWH-122とAM2201を合体させたような新種の薬物として見つかったのが、罪のない女子高生の命を奪うことになったMAM-2201でした。
2010年代以降は、ある危険ドラッグ製品から新種の薬物が見つかって法規制されると、信じられないくらいの短期間で、まだ規制されていない新種の薬物が登場して見つかるということが繰り返されてきたのです。2012~2014年ごろにニュース報道などで伝えられた事件の数々は、氷山の一角にすぎません。
「危険ドラッグ蔓延」の再来か? 「大麻グミ」などで、続出する救急搬送者
2009年ごろから、ハーブ、入浴剤、お香、アロマのように偽装された危険ドラッグ製品を売る実店舗が、都市部を中心に次々と登場しました。当初はひっそりとした路地裏などに、何の店か分かりにくい形で構えられていたのが、次第に堂々と展開されるようになり、「ハーブたくさんそろえています」のように書かれたボードを店先に出したり、より目立つようにポップな装飾で商品を見せたりして、集客をねらうようになりました。もともとタバコ用のものを改造した「危険ドラッグの自動販売機」が路地に設置されたり、ワンコインで変える「ガチャポン式」の販売機などまで登場しました。当たり前のように、このころから、危険ドラッグがらみの数々の事故や事件が多発するようになったのです。数々の事件が起きたことを受けて、ようやく取締りが強化されることになりました。ピーク時には全国で215あった実店舗が、2014年下期には激減し、2015年7月には国内最後の2店舗が閉鎖され、「危険ドラッグを販売する国内の店舗はゼロになった」と厚生労働省から発表されました。まるで、危険ドラッグが私たちの周りから一掃されたかのように思えました。
しかし、問題は少しも解決していませんでした。インターネットの世界では、得体の知れない薬物を「合法」「安全」と偽って販売しているサイトが簡単に見つかります。正しく判断できない人が、薬物犯罪に巻き込まれる危険性が非常に高い状況にあることは何も変わっていないのです。それを裏付けるように、新たな危険ドラッグ成分が指定薬物や麻薬に指定される「いたちごっこ」は、2023年の現在も変わらぬペースで続いています。
そして、2023年11月3日、東京で20代の男女4人が東武スカイツリーラインの電車内で突然体調不良になり、病院に緊急搬送されました。電車に乗る前に「大麻グミ」を食べたとのことです。また、翌11月4日には、東京都小金井市の武蔵野公園で開催された「武蔵野はらっぱ祭り」で、10~50代の男女5人がやはり体調不良を訴え、病院に搬送されました。同じ祭りに参加していた40代の男性が配った「大麻グミ」を食べたようです。そして、11月15日には、東京都板橋区のマンションで、同じ大麻グミを食べた20代の男女が手足のしびれや吐き気などを訴え、119番通報しました。これらの大麻グミは、いずれも大阪の会社が販売したもので、そのパッケージには「HHCH」と記されていたようです。このHHCHは、大麻成分に似たものを人の手で作り出した新規の合成カンナビノイドで、大麻成分と同等あるいはさらに強い精神作用や毒性を示す可能性があるにもかかわらず、まだ法規制されていませんでした。つまり、下火になったと思われていた「危険ドラッグ」に相当する合成カンナビノイドが、見かけ上お菓子にしか見えないグミに混入されて再び販売されていたのです。詳しくは、「危険ドラッグ入り「大麻グミ」で搬送者続出…都内の祭参加者も被害」をお読みください。なお、事件後まもなくの2023年12月2日に、HHCHは指定薬物として法規制されました。
最近の厚生労働省などの調査によると、大麻グミも含めた危険ドラッグの販売が全国289店舗で確認されているそうです。2015年にいったんゼロになったと報告されていた危険ドラッグ店舗が、当時のピークよりも上回る数で、復活しているのです。しかも、インターネット上では、さらに数多くの危険ドラッグが見えないところで取引されています。このままいくと、10年前の危険ドラッグ蔓延による社会的危機が再来する恐れがあります。
「自分には関係ないから、知らなくても大丈夫」は危険!
日本の薬物乱用防止キャンペーンのスローガンは、「ダメ。ゼッタイ。」です。この効果のおかげか、日本では安易に危険ドラッグに手を出す人は少ないようですが、その一方で、薬に対しての関心もなく、身を守るために大切な知識がない人も多いのも現状です。しかし、何も知らないままでは、突然自分が被害者になって取り返しのつかないことになるかもしれません。
自分の身を守るために、正しい理解と知識を身につけ、「正しく怖がる」ことが改めて求められているのではないでしょうか。