アミロイドβは有害な物質とは限らない
アミロイドβが認知症リスクを下げる?
高齢化社会が進行する我が国で認知症は大きな社会問題であり、認知症患者のおよそ半数は、アルツハイマー病が原因であると推定されています。
アルツハイマー病の発症機序は、まだ十分に解明されていませんが、アルツハイマー病を特徴づける脳病変の一つ「老人斑」を構成している「アミロイドβタンパク(Aβ)」というタンパク質が病態形成に関与しているという考え、すなわち「アミロイド仮説」が有力視されています。現在注目されているアルツハイマー病治療薬の研究開発においても、「アミロイド仮説」を基本にして、Aβが脳に及ぼす悪影響を阻止することが目標に掲げられています。
ただし、Aβは正常な脳でも常に産生されていますから、必ずしも有害な物質とは限らず、何らかの有益な生理的役割があるかもしれません。「アミロイドβは「脳のゴミ」?この考え方が適切ではない理由」で紹介したように、生体防御物質として働いている可能性も指摘されていますし、「『脳のゴミ』ではない!アミロイドβが多い方が『認知症』リスクが低い?」で取り上げたように、最近の研究論文で「脳脊髄液中の可溶性Aβが多い方が認知症を発症しにくい」と報告されました。Aβには、可溶性と不溶性の形が存在しますが、特に可溶性Aβの方は、むしろ認知症を防いでくれるのかもしれません。
もし本当にそうであれば、どのようなメカニズムで可溶性Aβが認知症リスクを低下させるのでしょうか。今回は、その手がかりとなる仮説を提唱した研究論文を紹介したいと思います。
アルツハイマー病の「コリン仮説」とは
今回取り上げる論文(Frontiers in Molecular Neuroscience, 11: 327, 2018)は、スウェーデン・カロリンスカ研究所の研究チームによるものですが、彼らが注目したのは、アルツハイマー病の発症機序について「アミロイド仮説」よりも前に提唱されていた「コリン仮説」です。1976年にイギリスのP・デービスら、1977年にイギリスのE・K・ペリーらが相次いで、アルツハイマー病患者の脳を調べたところ、アセチルコリンという神経伝達物質が働く神経系が特に障害されていることを報告したのをきっかけに、「認知機能を担うアセチルコリンの量が低下することで認知症が起こる」という考えが提唱されました。これが「コリン仮説」です。
もしこれが正しければ、アセチルコリンの量を増やすか、アセチルコリンの働きを高めるような薬を使えば、認知機能の改善が見込めますね。そして、この仮説に従って、実際に脳内のアセチルコリンの働きを高めることができる薬として、「ドネペジル」、「ガランタミン」、「リバスチグミン」などが開発され、現在のアルツハイマー型認知症の治療に用いられるようになりました。
ただし、「コリン仮説」に基づいたこれらの薬は、記憶障害などの症状を一時的に改善することはできても、アルツハイマー病の脳で進行する神経細胞の変性・脱落を食い止めることができるわけではないことから、アセチルコリンの低下は、アルツハイマー病の一側面に過ぎず、根本的な原因は他にあるとして、後の「アミロイド仮説」の方が支持されるようになったのです。
可溶性Aβがアセチルコリンの生合成を高めるという新発見
こうした背景を受けて、カロリンスカ研究所の研究チームは、アセチルコリンの生合成に関わる酵素「コリンアセチルトランスフェラーゼ(ChAT)」とAβの関係を解析することにしました。具体的には、試験管内でChATの酵素活性に及ぼすAβの効果を調べたところ、実際に私たちの体内の脳脊髄液中に存在する生理的濃度範囲の可溶性AβがChATの触媒速度を速くすることが分かりました。その効果は可溶性Aβ40と可溶性Aβ42の両方で認められましたが、可溶性Aβ42の方が、可溶性Aβ40よりも10倍低い濃度で効果を発揮しました。このことから、可溶性Aβ42が、アセチルコリンの生合成を促すことによって、アセチルコリンによる認知機能を維持する役割を果たしていることが明らかになりました。
この新発見は、可溶性Aβ42が、私たちの脳の働きを正常に保つのに役立つ役割も果たしていることを物語っています。
また、これまで行われてきた「アミロイド仮説」に基づいたアルツハイマー病治療薬の開発においては、とにかく脳内のAβを減らしさえすればよいという考えが中心になっていましたが、実際のところ、うまくいっていませんでした。今後は、可溶性Aβ42の有益な働きを損なうことなく、Aβが脳に及ぼす悪影響を阻止するという戦略が必要ではないでしょうか。