新薬に自分の名前をつけてもいいの? 基本的には「薬の特性」に合う名づけ
薬には人名が含まれた薬もある
私は星空を眺めるのが好きです。故郷の高校時代は天文部(正確には「地学部」)に所属し、望遠鏡で月面観察をしたり、夏休みと冬休み限定で学校に泊まり込みの許可をもらい、ペルセウス流星群やふたご座流星群の観測などを楽しんでいました。
私と同じように天体観測が好きな方ならよくご存じだと思いますが、月面クレーターには、ケプラー、コペルニクス、ティコなど天文学の発展に貢献した科学者の他、古代ギリシャの哲学者プラトン、「てこの原理」で知られる古代ギリシャの数学者・物理学者のアルキメデス、イギリスの物理学者・数学者のニュートンやフランスの細菌学者パスツールなどの名前が付されています。また、新星を発見すると、自動的に命名の権利が得られ、自分の名前を付けることもできます。
薬は医療に用いられるものですから、化学構造や薬効など薬としての特性がおおまかに把握できるような一般名が望ましく、自分で新薬を発見したからといって堂々と自分の名前をつけることはできません。しかし実は、あまり知られていませんが、こっそりと人名が含まれた薬の名前もあるんです。今回は、それらを紹介しましょう。
C型肝炎の治療薬「ソホスブビル」に隠れた合成・発見者の名前
ソホスブビル(sofosbuvir)は、2007年にアメリカのファーマセット社(2011年にギリアド・サイエンシズ社に吸収合併)のマイケル・ソフィア(Michael Sofia)によって初めて合成され、C型肝炎の治療に用いられるようになった抗ウイルス薬です。その名前のうち、頭の「sof」の部分は、化学構造中にイソプロピル基(i"so”propyl)とホスホリル基(”ph”osphoryl)を含んでいることを反映していますが、合成・発見者である Michael "Sof"iaにも因んでいると思われます。おそらく、表向きは違う説明をしながら、こっそりと自分の名前を入れたのかもしれませんね。
メジャーな局所麻酔薬「リドカイン」に隠れた発見者たちの名前
リドカイン(lidocaine)は、世界で最もよく用いられている局所麻酔薬です。みなさんも、歯科医院で歯の治療をするときに麻酔薬を歯茎に注射されたことがあるでしょうが、そのときに使われているのは、たいていリドカイン(代表的な製品の販売名:キシロカイン)です。リドカインは、スウェーデンのニルス・レフグレン(Nils Löfgren)とベングト・ルンドクビスト(Bengt Lundqvist)によって見出されました。化学構造中に2,6-キシリジン(xy”lid”ine)を含むことから、lidocaineと名付けられたと一般には言われていますが、もともと研究段階では、発見者である Löfgren と Lundqvist に因んで「LL30」と呼ばれていました。そして、医薬品として実用化されるにあたって、一般名の頭に「L」を置いたのは、発見者である自分たちの名を残したいという思いがあったのではないかと思われます。
抗生物質「バシトラシン」に隠れた患者の名前
バシトラシン(bacitracin)は、抗生物質の一種で、皮膚感染症などに対して外用(フラジオマイシンという別の抗生物質と配合した軟膏剤のみ)で用いられています。1945年にアメリカのコロンビア大学のバルビナ・A・ジョンソンらによって枯草菌 "Baci"llus subtilis "Trac"y株から発見されたことから命名されました。起源となった枯草菌の「Tracy株」という名称は、1943年に当該細菌が Margaret Tracy というアメリカ人少女(1936年生まれ)の膝の汚染された傷から初めて分離されたことに由来しています。つまり、本薬名中の「trac」は、人名を反映していると言えます。
エイズ治療薬「エムトリシタビン」に隠れた大学名(元は人名)
エムトリシタビン(emtricitabine)は、HIV-1感染症(いわゆるエイズ)の治療薬です。1990年代に米国のエモリー(Emory)大学で見出された化合物で、HIV-1の逆転写酵素を阻害することによって抗ウイルス作用を発揮します。薬名中の「エム(em)」の部分が、大学名中の「Em」に由来しています。エモリー大学は1836年に米国ジョージア州のメソジストのグループによって創設され、開学の前年に亡くなったメソジストのジョン・エモリーに因んで大学名がつけられたので、元をたどれば、エムトリシタビンという薬名の起源は人名にあると言えますね。
咳止め薬「ゲーファピキサント」に隠れた博士の名前
2022年4月に、新しいメカニズムの慢性咳嗽治療薬(いわゆる咳止めの薬)「ゲーファピキサント(gefapixant)」という新薬が発売されて、注目されています。様々な刺激や細胞傷害などによって気道粘膜細胞からATPが漏れ出ると、それが気道の迷走神経の C 線維上にある受容体に結合して、咳を生じると考えられますが、ゲーファピキサントはこのATPのシグナル伝達を遮断することで咳を抑える薬です。8週間以上継続する「慢性咳嗽」の中には、原因疾患の治療を行ったとしても止まらない場合や、そもそも発症原因が特定できない場合があり、ほとんど治療の選択肢がなかった中で、ゲーファピキサントは、持続する咳に悩まされ続けてきた患者を救う新たな選択肢として期待されます。
この薬を最初に見出したのは、アメリカのロシュ・パロ・アルト社ですが、最初に与えられた薬の名前は社名を反映した「RO-4926219」という開発コード名でした。またその後、同じアメリカのアフェレント・ファーマシューティカルズ社 (所在地:米国カリフォルニア州サンフランシスコ・ベイエリアのサンマテオ市) と共同で開発が進められることとなり、やはり社名を反映した「AF-219」という別の開発コード名も与えられました。さらに、2016年 には、米国メルク傘下のMSD社がアフェレント社を買収して開発を引き継いだことで、「MK-7264」という第三の開発コード名も与えられました。そして、最終的に、実用化に向けて有望と認められて与えられた一般名が「ゲーファピキサント(gefapixant)」でした。この名前のうち、頭の「gef」は、ATPのシグナル伝達分子機能を解明するのに長年貢献してきたイギリス・ロンドン大学のジェフリー・バーンストック(Geoffrey Burnstock)博士を称えて、加えられたそうです。
バーンストック博士は2020年6月2日に亡くなりましたが、その功績は、薬名の中に刻まれ、末永く語り継がれることでしょう。
他の薬についても歴史とともに名前の由来を調べてみると、思わぬ面白い発見があると思います。ご自身やご家族の飲まれている薬があれば、ぜひ一度調べてみることをおすすめします。