自粛期間中の母親たちの悲鳴
コロナ禍で、子育て中のママたちはハンパなく疲弊しました……。
「子どもの面倒を見ながら仕事なんてできない!」と、ワーキングマザーたちは頭を抱えました。きょうだい喧嘩をなだめながらの在宅ワーク。オンラインの会議中に乱入してくる子ども。集中力は途切れ途切れ。
専業主婦のママたちも同じです。子どもが学校や保育園、幼稚園に行っている間にこなしていた家事が思うように回らなくなり、それでもこれまでと同じクオリティを求められ、疲弊していったママたちが少なくありません。
3度の食事の支度。子どもの勉強も見てあげなければならないし、長引く休校と外出自粛による子どもたちのメンタルの状態も気になる……。「私はスーパーウーマンじゃない!」と叫び出したくなる気持ちを抱えながら、ママたちは自粛期間を過ごしたのです。
コロナで2極化した夫婦関係
在宅勤務やテレワークで1日中家にいることになった夫たちは、普段自分が仕事に行っている間、妻がどのようにウイークデーの家事や育児を切り盛りしているのかを目の当たりにする機会を得ました。脱ぎっぱなしのシャツが、翌日にはキレイにアイロンをかけられてクローゼットに入っているのを当然のことのように思っていたけれど、そこには手間と時間がかけられている。自分が帰宅した時にはパジャマで絵本を読んでもらっている子どもたちが、どのように食事と風呂を終えているのか。そういった家族の日常をつぶさに見るようになりました。
コロナ禍で、夫婦関係は2極化したといわれますが、それは、お互いの普段の働きに感謝し、思いやれたかどうかの違いだったように思います。
妻の負担の多さに気づき、家事を一緒にするようになった夫たちは、料理や掃除の腕を上げ、妻や子どもとの関係も良好になっていきました。自粛期間中のDVの増加が問題になりましたが、それは、妻を自分のストレス発散のはけ口にしていいと思っていた人たちの身勝手な行動がエスカレートしたのです。
表面化した、家庭内不平等
「夫も私もテレワークなのに、私の負担だけが増えた」と語るのは、会社員のA子さんです。自室にこもって仕事をする夫。子どもの面倒を見ながら、昼食の支度をし、後片付けをするのはA子さんです。B子さんは、子どもの面倒を見てくれる人がいないため、パートの仕事を辞めることになりました。「お給料は少ないけれど、やりがいを持って働いていました。夫は管理職ですし、私が仕事を辞めるほかに方法は見つからなかった。でも、それを当然のように言われたのが嫌でした」と語ります。
専業主婦のC子さんは、夫が在宅勤務をすることになり、夫の顔色を見ながらビクビク生活していました。「子どもが騒いだり、洗濯機を回したりすると不機嫌になり、私が怒られます。俺が稼いでいるのだから、全面的に配慮するのは当たり前だと言われました。子どもだって1日中家の中にいてストレスが溜まっているのに……。かわいそうでなりませんでした」と涙を浮かべます。
これまで女性は、自分のことを後回しにして周囲を優先することが美徳とされてきました。夫や子どもの都合に合わせるのが当然とされ、母の献身は「美しき自己犠牲」として称賛される。何か問題が起これば「母親は何をやっていたんだ」と責められる。
そんな世間の風潮に違和感を持ちながら、どうにか折り合いをつけてきたママたち。でも、今回のコロナ禍で、「母親だから」と当たり前のように求められる重荷に耐え切れなくなった人は少なくありません。
「母親なら」という圧力
先日、Twitterで話題になった投稿がありました。みつばち @mitsu_bachi_bee
7月8日
「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」の声に驚いて振り向くと、惣菜コーナーで高齢の男性と、幼児連れの女性。男性はサッサと立ち去ったけど、女性は惣菜パックを手にして俯いたまま。 私は咄嗟に娘を連れて、女性の目の前でポテトサラダを買った。2パックも買った。大丈夫ですよと念じながら。
「母親なら」という上から目線と、ポテトサラダは手間がかかるんだぞ、というところに多くの人たちが反応していましたが、これこそが、今の日本のママたちのしんどさを象徴しているように思います。
おそらくその高齢男性は、自分でポテトサラダを作ったことはないのでしょう。だから「親なら」とか「大人なら」ではなく「母親なら」と言った。自分の母親や、自分の子どもの母親である妻から、手作りのポテトサラダを食べさせてもらってきたのでしょう。
でも、そこには、作り手に対する感謝もねぎらいも見えません。「母親なら」当たり前に、簡単に作れるはずだろ。それをしないのは、手抜きであり、母親として失格だ。そうした考えが垣間見えます。
「母親なら」「母親として」を外してみよう
父親にできなくて母親だけができることは「妊娠・出産」のみです。父親は、母乳は出ませんが、授乳はできます。母親としての役割は、産んだ時点で終わっている。後の子育ては「親として」やっていけばよいのではないでしょうか。父親も、母親も。「母親なら」という言葉には、さまざまな幻想が詰まっています。そして、ママたち自身も、その幻想を持っていて「理想の母親像」と比べて自分を責めています。
ですから、「母親として、自分はだめなんじゃないか」「母親なら、これくらいできて当然なのではないか」と思ってしまった時には、「父親ならどうだろう?」「親としてはどうだろう?」と考えてみましょう。
「母親」だけにあてはまる期待は、ただの幻想でしかありません。逆もしかりです。
親として、子どもにどう関わるか。親として、家族の生活をどのように作っていくか。そうした発想に切り替えていくと、物事はシンプルになり、自分たちなりの心地いい家庭を作っていけるのではないでしょうか。
夫婦のどちらか一方に負担がかかるような状態ではなく、両親がお互いに協力し合い、ねぎらい合う姿を見せながら、子どもを育てていきたいものです。
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