偏差値でお金を稼ぐ能力は測れない
学校教育制度は、小学校から中学校、高校、大学と順に送り出す必要があります。その性質上、どうしてもテストの成績や偏差値を重視した教育になりやすいのは、やむを得ない側面があります。しかし、偏差値は学力を測る数値に過ぎないですから、それ以外の能力を計測することはできません。たとえば、リーダーシップは測れないし、お金を稼ぐ能力も測れません。つまり偏差値とは、人間の魅力・能力のほんのごく一部しか計測することができないのです。
なのに、そうしたものに親がいちいち一喜一憂していれば、子どももテストの点数や偏差値ばかり気にしてしまうでしょう。
家庭では学校で伸ばせない能力を高める
真の学力とは自分で課題を見つけ、自ら主体的に学び、探求し、より良い問題解決に導く姿勢・資質のことです。しかし、学校では問いが与えられることはあっても、自分から問いを立てることは封じられます。一部の名門校などではそういう学び方をさせているようですが、自分の子の学校がそうでなければ、そこは親がサポートしてあげる必要があるでしょう。
つまり親は意識して、偏差値以外のモノサシにウエイトを置くことです。家庭が学校教育の下請けになるのではなく、学校では教わらない生活の知恵や道徳観、職業観、教養が得られる経験をさせることです。
そもそも子が社会に出るころには、何の職業につくかわからないし、環境がどう変わっているかもわかりません。
だからどんな時代が来てもその時々で、最適な選択を自分で考え選べる人間になることです。学校では読み書きそろばんのスキルを伸ばす場、社会性を身に着ける場と割り切り、家庭ではそれ以外の能力を伸ばすことに親は注力することです。
勉強のことで子どもを叱らない
もし、子どもが勉強しないとか成績が悪いからといっても、決して叱ったり小言を言ったりしないことです。なぜなら、叱れば勉強嫌いにはなっても、勉強するようにはならないからです。また、小さい子どもの宿題を親が見ることもあると思いますが、「何でこんな問題もできないの!」などというのも逆効果です。子どもが委縮し、間違えることを恐れるようになってしまいかねません。
勉強に限らず「なんで〇〇できないの!」というのは、理由を聞いているようでいて、言外に「こんなこともできないあんたはダメ人間ね!」と言っているようなものです。子どもは無言でうつむくか、「ゴメンなさい」としか言えないでしょう。
大人でもそうですよね。上司から「なんでこんなこともできないんだ!」などと言われても、返す言葉は見つからないと思います。
また、「あなたのためを思って言っている」というのも、本当は子のためではなく、親が安心したいだけのセリフです。つまり、子どもの成績や勉強について親が叱る場面というのは存在せず、もしそんなことをする親がいたとしたら、それは単に親のイライラや不満をぶつけているだけです。
「自由な未来」を勉強する動機づけに
もし、子どもから「なんで勉強しないといけないの?」「こんなことして何の役に立つの?」と聞かれることがあるかもしれません。そんなときにどう答えるか。そもそも勉強するのは、より自由で豊かな生活をして幸せになるためです。社会に出れば、学校には行かなくてもいいし、親の言うことを聞く必要もありません。好きな時間に起きて、好きなものを食べて、好きなことをして過ごし、好きな時間に寝ることだってできます。でもそんな自由は、勉強しないと得られません。 そもそも自分が本当にやりたいこと、行きたい目的地がわかるのは、大人になってからがほとんどで、その行きたい目的地も何度も変わったり複数に増えたりするものです。そのとき、何が自分に有利か不利かを考え、選択する力がモノをいいます。
勉強をすれば、選択する際のモノサシが増え、選択肢も増えます。しかし、勉強しなければ何を基準に選べばいいかがわからないし、そもそも選択肢が少ないから、生き方も選べません。
だから、今は怠ければ怠けるほどラクに感じても、将来は不自由な人生になるかもしれません。そしてその将来は70年くらいも続くわけで、今の数年がんばることはゴミのように短いんじゃないか。みたいな話はいかがでしょうか。
親が子に学び続ける姿勢を見せる
そしてこれは、大人にも当てはまりますね。たとえばAIやロボットに仕事を奪われるという脅威論ばかりが騒がれますが、不安ならそれらを勉強し、自分がAIやロボットを使いこなす側に回ればよいはずです。しかし、今ラクをしたい人は怠け、いずれ来る未来を不自由にさせてしまうリスクがあります。
やはり生涯勉強する姿を、親が子に見せる必要があるでしょう。親が興味を持ってやっていることは、子も興味を持つようになるものですから。