ハブられないように皆と同じでありたいと思うと「稼げない人に」
日本人の多くは、周囲と同じでありたいと願い、同じように振る舞おうとします。自分だけが違うというのは、周囲から浮くのではないかという恐怖を感じるからです。ハブられないようにみんなと同じでありたい。同じであることで一体感を得ようとするのです。だからそういう人は、自分と他人の違いを認められません。「同じ」であることを確認して安心したいからです。そしてそういう「ひとりひとりは違っていいんだ」と思えない発想を、周囲にも押し付けるようになります。それはお互いの違いを認めないという発想であり、だから自分の考えとは異なる人を見つけるとイライラします。
彼らは周囲に同調することが大事です。すると自分の価値観よりも社会の価値観を優先しようとします。そしてそれは「べき」という自分を縛る枷になります。
そんな社会からの刷り込みや常識という固定観念が強い人は、多くの「べき」がこだわりとなり、それとは違う言動や生き方を容認できなくなる。
つまり孤独がこわいという人は、心のどこかにマイノリティを社会の片隅に追いやろうという気持ちがあるということです。こういう人がいわゆる差別やいじめを生み出すのです。
自分の感性を押し付ける人も差別意識を内包しています。「え、まだ〇〇やってないの?」「まだ〇〇なの?」みたいな人は、それを知っている・やっていることが、自分の評価であると信じたい。他人には他人の考えがあることを認める度量がない。
そもそも人と違うからといって、相手が悪いわけではなく、自分が悪いわけでもありません。ただ価値観が違う、生き方が違うということ。それはつまり、住む世界が違うということです。
だから本来は別々の世界で生きればいい。違いがあったとしても、それはお互いに礼儀正しく認めて、ぶつからないようすれ違えばいいだけなのです。
それに、よくよく考えてみると、協調性や社会性がないから社会のひずみに気がつき疑問が湧くわけです。協調性がないから、周囲がなん言おうと自分の考えを押し通して社会を変革する推進力があるわけです。
そもそも「社会性がある」とは、自分を周囲に合わせて集団の中で上手にわたっていく能力のことであり、社会性が高ければ高いほど、周囲が驚くような突拍子もないことはできないでしょう。
つまりお金を稼げるイノベーティブ人材になりたいという人には、まわりに合わせたり、社会性はかえって邪魔なのかもしれません。