日本の文具市場をグルリと見渡してみると、毎年たくさんの新製品が続々と登場し私たちを楽しませてくれている。ただ、文具からすると市場には沢山の競合がいる訳なので、その中で生き残っていくのは並大抵なことではない。そうした激戦の中で静かに売れ続けているのがロングセラー文具。誰もが一度ならず何度なく手にしてことがあるものだと思う。それらの魅力や生まれたきっかけについて紹介してみたい。
オルファ ブラックS型
今やカッターの代名詞となっている刃をポキポキと折って新しい刃を出して使っていくというスタイル。それを初めて考え出したのが、オルファの創業者岡田良男氏である。1956年、岡田氏はとある印刷会社に勤めていた。版下など紙を切るときには小刀のようなナイフを使ったり、カミソリの刃だけを手に持って使っていたりした。日々仕事でたくさんの紙を切るので、どうしてもすぐに切れ味が悪くなってしまう。ただ、摩耗しているのはあくまでも刃先だけ、その手前はまだ十分に使える状態だった。それを捨ててしまうのがもったいなかった。そこで、刃を折って使っていくことを思いつく。
この時参考にしたことが2つあった。ひとつは岡田氏が子供時代にアメリカ進駐軍が持っていた板チョコ。チョコをポキポキと折って食べていた。そしてもう一つが靴職人がゴム底を切る時に使っていたガラスだった。切れ味が悪くなると、職人たちはガラスを割って鋭い面を出して使っていた。これが着想のきっかけとなった。いくつもの試行錯誤を経て今に続くオルファのカッターは生まれた。
オルファの刃は、ポキポキと折るための溝がある。これは刃の片面しか付いていない。ふだん紙を切っている時には刃は折れることはなく、本体後ろにある「刃折具」を使う時にだけ簡単に折れるようになっているのだ。この普段使いでは折れないが、新しい刃を出す時には折れるという絶妙な溝の深さは企業秘密とされている。
オルファのカッターにはトレードカラーとなっているイエロー。このカラーは卵の黄色をイメージしたという。店頭でもしっかり目立つと同時に刃物なので注意して使ってもらわなければならない。一方で、温かみも感じてもらいたいというバランスの中で決まったカラーなのだ。
ヤマト ヤマト糊
子供の工作などでよく使われているヤマト糊。私も子供の頃にお世話になった。今も柔らかな感触が私の手の記憶に残っている。このヤマト糊の歴史はかなり古く1899年(明治32)、すでに100年以上の歴史がある。オルファの時もそうだが、ヤマト糊も必要に迫られて生み出されている。創業者、木内弥吉は薪や炭を販売していた。それらを入れる紙袋を作るのに糊が使われていた。その頃の糊は米などのでんぷん物質を水で溶いて煮て作っていた。ただ、それらのでんぷん糊はすぐ腐ってしまうものだった。そこで、腐らない糊を作ろうということで開発に乗り出す。防腐剤と香りをよくする香料を混ぜて開発に成功。もともとは自分の仕事のために作ったものだったが、より多くの人に使ってもらいたいと広く販売をすることにした。
ちなみに「ヤマト糊」という商品名は、商売が当たりますようにという願いから、矢が的に当たる「ヤマト」と名付けられたという。その後、戦時中は原料となる米の入手が困難になり、一時的にダリヤや彼岸花の球根のでんぷんを使っていたこともあったという。ただ、従来の製法では同等の品質がつくれなかった。そして開発されたのが「冷糊法(れいこほう)」という製法。加熱せず化学的処理による製造だ。より強力で劣化しない画期的なものだった。今もこの製法で作られている。なお現在は、アレルギーのことも考慮されタピオカでんぷんが使われている。
また、これはあまり知られていないことだが、ヤマト糊には寒冷地仕様というものが過去にあった。北海道など寒い地域だと糊が凍ってしまうことがあったためだ。こうしたきめ細かい対応もロングセラーの理由のひとつなのだろう。
トンボ鉛筆 8900
やや淡さのあるオリーブグリーンがトレードカラーの鉛筆「8900」。家庭や会社、さらには選挙の投票所など幅広く使われている鉛筆である。誕生は1945年(昭和20年)。時代の流れの中で生み出されたといういきさつがある。もともとトンボ鉛筆には当時「8800」という高級製図用鉛筆があり、人気を博していた。それが日本が戦争へと突入し状況が一変した。政府が「価格等統制令」というものを決めた。これは。一般消費財の価格・運送費・加工賃などの諸物価を昭和14年9月18日時点の価格に据え置くというものだ。製図用鉛筆の価格も決められ「8800」は価格面で、もはや作れない状況になってしまった。実はトンボ鉛筆では統制令施行直前、まだ国産化されていなかった「写真修整用鉛筆」の販売許諾を1本30銭で得ていた。戦後、価格統制令は廃止されたが、その代わりに物価統制令が施行された。その影響を受け「製図用鉛筆8800」は価格面で作れない状況は続いた。そこで、すでに販売許諾を得ていた「写真修整用鉛筆」の開発に乗り出した。
1943年に特許を取得した粘土の微粒子加工を実現することで、「製図用鉛筆8800」の上を行く「写真修整用鉛筆8900」が完成した。統制令などの事情で作られた「写真修整用鉛筆」ではあったが、時代が求めているというタイミングとうまく重なった。それまで鉛筆はどちかというとなめらかに書けることが使命だった。写真修整にあたっては、全く違うことが求められた。それは均質で光の遮断に優れているというものだ。そもそも鉛筆は写真の光ムラを取り除き透明感のある仕上がりを得ることができた。「8900」は、その点を追求した専用鉛筆である。折しも写真(光学)技術の急速な普及があったという追い風もあり、「写真修整用鉛筆8900」は、瞬く間に受け入れられていった。また、開発の中心人物、創業者の長男である小川八郎氏がアマチュア写真家であったことも大きかった。
こうして誕生した「8900」は、現在は写真修整用鉛筆ではなく、一般筆記用として販売されている。ちなみに、「8900」という名前は「破竹の勢いで売れて欲しい」という想いが込められていたという説もある。
シード レーダー
今や消しゴムのほとんどは「プラスチック消しゴム」だ。その昔、消しゴムは天然ゴム製のものだった。それは、時が経つとしだいに硬くなって消す性能も悪くなってしまうものだった。現在主流となっている「プラスチック消しゴム」は、硬くならず消字性能も変わらないという画期的なものである。この「プラスチック消しゴム」を世界に先駆けて生産を開始したのがシード社である。
同社を代表するプラスチック消しゴム「レーダー」の誕生は1968年(昭和43年)。「レーダー」の最大の特徴は消字率、当時のプラスチック消しゴムの消字率は90%ほどだった。そんな中で「レーダー」は97%を誇った。当時、独自の厳しい商品調査で支持を集めていた雑誌「暮らしの手帖」でも評価されるほどだった。
この「レーダー」の消字率を支えているのは、いくつのも技術の積み重ねによるものが大きい。たとえば、消しゴムのほどよい硬さと大きさという点もそうだ。硬すぎると紙の繊維にからみついた黒鉛の粒をこすりつけるだけになってしまう。逆に柔らかすぎてもクニャクニャしてうまくこすれない。「レーダー」では、それがほどよいあんばいになっている。また、大きさについては開発時に様々な年代の手の大きさの人たちに使ってもらい、一番力が入る大きさを割り出している。硬さも大きさも一言で言ってしまえば、「バランスの良さ」ということになるが、そこに辿り着くために数え切れない試行錯誤が繰り返されたのだ。
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