切手の図案が原因で戦争に!
よく切手は「小さな外交官」などと呼ばれますが、切手の図案が戦争の引き金となってしまうこともあるのです。ここでまず紹介したいのは、カリブ海に浮かぶイスパニョーラ島での出来事です。北海道よりやや小ぶりな島ですが、この島の西側にハイチ、東側にドミニカ共和国があり、両国は切手の図案で戦争を起こしています。ハイチはフランス革命時に独立した黒人共和国で、フランス語を公用語としているのに対して、一方のドミニカ共和国は白人系・混血系が多くを占め、文化的には大きく異なります。もともと仲は良くなかったのですが、ドミニカ共和国が1900年10月21日にイスパニョーラ島を描く切手を出した際、あろうことか自国領土が大きくハイチ領に食い込んでいたのです。当然、ハイチの怒りを買うことになり、それから国境線付近ではたびたび衝突が起こるようになりました。
さらに事態は深刻化し、1937年にはドミニカ共和国の独裁者トルヒーヨが国境付近のハイチ系住民に対して虐殺事件を起こすまでになりました。しかし、ドミニカ共和国が記念切手「サントドミンゴ市450年」を1946年8月4日(この時点ではなおもトルヒーヨ政権)に発行した時には、正しい国境線に変更されています。
冷戦体制が生み出した「郵便戦争」
もう1つ切手をめぐる紛争として有名なのが、東西ドイツの間で繰り広げられた「郵便戦争」(ポストクリーク)です。ここに示す封筒は東ベルリンから西ベルリンへ届けられた書状ですが、右上の消印の標語部分には「ベルリン―東ドイツ(DDR)の首都」と書かれています。それに対抗して、西側では「ベルリンはドイツの首都。ソビエト地区ではない」と赤い標語印をつけ加えて、差出人に届けています。少し大げさなようにも感じる処置から、冷戦当時の緊張感がうかがえます。
1960年代の西ドイツの普通切手のうち、東ドイツ側に所在するドレスデンのツヴィンガー宮殿の10ペニヒ切手などがあります。この切手が東ドイツに届くと、インクやペンキなどで切手図案を毀損の上、返送していました。また1969年に西ドイツが発行したユンカースJU52の航空機の切手ですが、D-2201の機体はヒトラーが使用したものだったことから、当時のソビエト連邦では切手の受け入れを拒否しています。
半世紀にわたった「竹島切手」問題
切手をめぐる外交問題は日本と韓国の間でも起きています。1954年9月15日、韓国は独島を描く普通切手3種を発行しました。独島とは竹島(島根県隠岐郡)の韓国側での呼称であり、この切手の発行はいち早く新聞などでも報道されました。日本政府は同年11月19日に、独島を描く切手(竹島切手)の貼られた郵便物の返送や万国郵便連合(UPU)への異議申し入れなどをすることに決定しました。ところが、第5次吉田内閣末期という不安定な政局もあって、具体的には何も実行されませんでした。(岡田芳朗、『切手の歴史』、講談社、1976年、128ページによる)さらにそれから半世紀近くを経て、韓国は2002年8月1日に「わが故郷切手」32種の1種として再び独島の切手を発行。2004年1月16日にも「独島の自然」4種を出しました。これに対して当時の日本郵政公社は日本切手として竹島切手を発行することはないと発表しています。
ここまで、いわゆる紛争切手の典型的な事例を挙げてきました。その国にとっては当たり前に認識されていたとしても、切手の図案として国外に出てしまうと全く違った意味を帯びてしまうところに、改めて切手の公的な性格が見てとれるのではないでしょうか。