日本のおもてなしの盲点とは?
個人が出来るおもてなしと行政のおもてなしの違い
2020年東京五輪の誘致プレゼンがきっかけて注目されるようになった日本のおもてなし。かつて長野冬季五輪の際も、外国人選手や外国人観光客から日本人の親切で丁寧な対応が絶賛されたが、それが再び脚光を浴びている。その一方で、日本の行政はおもてなしに関して肝腎なことを見落としている。良かれと思ってやっていることが実は町の魅力を失わせている。
意外に思われるかもしれないが、その象徴が町にゴミ箱がないことだ。
「ゴミ箱」を見れば国のポリシーがわかる
東京の町なかには公共のゴミ箱がほとんどない。町なかを歩いていても前後左右になかなかゴミ箱が見つからず、結局、コンビニを見つけて捨てているのが実情だ。ひどい場合、飲み物の自動販売機の横にゴミ箱が設置されていない場合もある。物を売れば必ずゴミが出るのに、それを捨てる場所を置かないというのは、まるで「トイレのないマンションのようなもの」だ。
飲み物を購入し、歩きながら飲んだ後、カップの捨て場に困って右往左往している外国人もいる。私自身、どうして日本にはゴミ箱がないのかと彼らに聞かれたこともある。
シンガポールとの違い
なぜこのようなことになっているのか?対照的なのがシンガポールだ。シンガポールはゴミが落ちていないことで知られ、町は清潔で、ゴミや吸い殻などがほとんど落ちていない。
その理由について、ゴミのポイ捨てを禁止するルールが厳しいからだと日本では思われているが、実はそうではない。
シンガポールでは町中いたるところにゴミ箱があるため、わざわざそれを無視して地面に捨てる人などいないのだ。
「ゴミのない町」と「ゴミ箱のない町」
シンガポールでは3分も歩かないうちに必ずゴミ箱がある。どこにいても、回りを見れば必ずすぐそばにゴミ箱がある。商業エリアはもちろんのこと、観光エリア、ビジネスエリア、住宅エリアでも同様だ。 ゴミ箱を増やせばゴミのポイ捨ては減るという考え方に立っているからだが、日本はその逆だ。なぜこんなことが起きるのか。それは本当のおもてなしと見せかけのおもてなしを取り違えているからだ。
形式上のおもてなしと本当のおもてなし
たとえばショーを見に行くと仮定しよう。大きくて新しく、椅子の座り心地も良いホールとなればハードとしては申し分ない。ところが肝腎のショーが退屈でつまらなければ二度と見に行かないし他人にも勧めない。
一方、ホールは古くてこぢんまりし、椅子も多少ガタが来ていたとしても、出し物であるショーは圧巻で拍手が鳴りやまないほどだとしたら、もう一度見に行きたいと思うし、知人にも勧めるだろう。
つまり、人を楽しませるためのおもてなしとは、見かけを整えることではなく、「本業で人を満足させること」である。本業で完璧におもてなしをすれば、それを取り巻く形式的な不満など気にならなくなるものだ。
まさに観光にはそれが当てはまる。
その好例がフランスだ。
京都の10倍が訪れるパリ
フランスにはいわばおもてなしとはかけ離れた社会性があり、英語で話しかけてもわざとフランス語で返答されることもしばしばだ。労働組合との折衝の時期など地下鉄でも頻繁にストが起き、乗っていた電車から降ろされることもある。観光客がいようがおかまいなしだ。しかしそんなフランスは常に世界一の観光客数を誇っている。京都を訪れる外国人観光客は年間約200万人だが、パリには一桁違う年間約2,000万が訪れる。
フランスに見習う本業でのおもてなし
外国人向けに何の心遣いもしない町になぜこれほど人が殺到するかといえば、芸術を核としたフランスの伝統文化を守っているからであろう。パリの街並みは色彩も統一され、たいへん美しく、景観を邪魔する突飛な建物もない。所有者の権利を一部制限してでも、パリという町全体の価値を維持することが優先されている。
パリの路上には犬の糞がゴロゴロしている。しかし歴史ある建物は保全され、町の景観も統一され、守られている。
法律に違反していないからといって、町全体の景観を損ねる建物が建てられてしまう日本とは大きな違いだ。
築地で出会った外国人
近年、観光を目的とした訪日外国人の数は増加している。豊洲の土壌汚染対策が予定した通りに行われていなかった問題が発覚し、移転が延期されている築地市場だが、今もなお見物に訪れる外国人は後を絶たない。むしろ今のうちに見ておこうと、築地市場見学を目的とした外国のツアーさえあるほどだ。
そんな築地市場に来ていたある外国人から、「これほどの観光資源を無くしてしまうのは信じられない」と言われた。
築地を見物に来るような外国人は移転に関わる事情も熟知しており、「五輪のために移転させるなんて信じられない。私たちはこうした日本の伝統文化を見たいのに・・・」
伝統や文化を守ることが行政にとってのおもてなし
その国の伝統や文化を守ることは、個人では限界があり、やはり行政自らが行わなければ無理な面がある。だが残念なことに、日本の行政にその意識は低い。
原宿駅の取り壊しに代表されるように、観光客の増加に備えるとして歴史ある建物が壊され、近代的なビルに建て替えられてしまったりする。
また、地元らしさ溢れる通りが、観光バスが通れないからといって美しい並木が切り倒され、拡張され、並木の代わりに電柱が立てられることもしばしばだ。
タレントのパックンことパトリック・ハーラン氏も次のように述べている。
「緑を減らして電柱を維持するなんて、東京の魅力を高めるのとは真逆の方策だ。やるべきことが逆転してしまっている」(Newsweek6月30日号)
こうした言葉が行政に届かないのが何とももどかしい。