本人への願いと名付けは、本来は別の話
子への希望と名前の希望は違う
Q: 「周囲から尊敬される人になるように」という願いをこめて名付けるのは、不遜なおごり高ぶった印象をあたえてしまうでしょうか?
A: 不遜と思う人も思わない人もいるでしょう。しかし、他人がどう思うかより、親自身がどんな感覚で名付けをしているのか、ということのほうが問題です。本人への願いと名前の希望は混同されることが多いのですが、本来は別の話だということをまず区別しておいたほうがよいでしょう。
本人への願いをこめた名付けは理屈中心になりやすい
本人への希望と、名前の希望とは実によく混同され、「どんな名前を希望しますか?」とお聞きすると、「健康に育ってほしいです」「人に好かれるようになってほしいです」とお答えになる方は非常に多いのです。もちろんお子さんに願いをもつことは親であれば当然のことです。またそうした願いを名前で表現することは、一般に広く行われていますので、名付けの一つではあります。そしてそういう名付けは、他人にも説明がしやすく、親の思いがこもった良い名づけだとほめられることも多いので、世間一般では「名付けはそういうふうにやるものだ」と思われることもよくあります。
ところがこれについては、一般に広まった考えと、名付けの専門職の考えが大きく違うのです。この名づけは落とし穴もあるのです。「何となくこの名前が好きだから」という気持ちでやるなら、名前そのものの好みですから問題無いですが、「こういう名前ならこういう人間になるだろう」とか「こういう説明をすれば人が納得するだろう」などという発想でやりますと、親の正直な名前の好みが忘れられ、占い、まじないに走ってしまうことにもなりかねません。
理屈をガンと打ち立てたような名付けは、その理屈とまるで反対の結果を招くこともよくあります。本人への希望を名前にこめるのは、そのような恐さもありますので、やるのはもちろんご自由ですが、専門家が積極的に人にオススメすることはありません。
同じ漢字を使っても結果は違う
今では使われない言葉ですが、昔は人に尊敬されるような人物は聖人(せいじん)とか聖(ひじり)と呼ばれてきました。名づけの場合でも、この「聖」の字そのものが理屈ぬきで好きだということであれば、親の好みを正直に表現した名づけですから問題はありません。しかし始めから「立派な人間になるように」「人に尊敬されるように」という理屈からスタートしている場合は、リスクを伴う名づけになります。2016年では、「聖人」(まさと)という名前の人がオリンピックで大活躍をしましたし、「聖」(さとし)という名前の人が障害者施設を襲撃しています。
同じ字を使っても、つける時の親の感覚の違いによって、違う結果につながります。本人に伝わるのは名前そのものではなく、親がどんな感覚でつけているのか、という精神面のほうなのです。