森本太郎ロングインタビュー
2016年11月18日に70歳を迎える森本太郎。グループサウンズブームを代表するスターとして、一人のミュージシャンとして、ザ・タイガース時代から現在にいたるまでのさまざまな思い出とこれからを語っていただきました"70歳"と森本太郎
ガイド:今年の11月18日で70歳になられますね。10代で音楽活動を始めた頃に、自分が70歳になった時のイメージやビジョンってありましたか?
森本:まったくなかったですね。君でもそうかもしれないけど、僕らが20歳の時の感覚だと50歳でももうおじいさんですよ。定年退職まで少しだし……そういう時代。だからまだ音楽をやってるなんて思ってもいないよね。
ガイド:今実際に70歳に近づかれて、何か実感することはありますか?
森本:50歳になっても60歳になっても自分が子供だなってことにびっくりしますね。若い頃はそういう年代の人ってもう神様のように大人なんじゃないかと思っていたから。でもいざ自分がその年齢になってみても、全然大人になれていない(笑)
ガイド:自然に歳を重ねられているっていうことかもしれませんね。
森本:知恵とかモラルとか、社会人としての知恵をもっと身につけていたかったね。恥ずかしいしもっと勉強しなくちゃと思いますよ。
ガイド:同年輩の音楽・芸能業界の方を見られて何か思うことはありますか?
森本:たとえば沢田研二はものすごいがんばってるし、リスペクトするくらいです。岸部一徳も役者であれだけ活躍してすごいなと思います。先輩だと加山雄三さんやかまやつひろしさんもあの年齢でまだ現役ですしね。頭が下がる思いです。
ガイド:加山さんやグループサウンズの世代の方が日本のかっこいい大人文化を育ててきた感はありますよね。仕事人としても男としても生涯現役みたいな。
森本:全員ではないけど、音楽に携わってる人っていつまでも純粋で子供っぽさが残っている気がします。音楽業界以外の人は政治や経済の話で盛り上がるんだろうけど、僕たちは「このフレーズかっこいいなぁ!」だもんね(笑)いいことだと思いますけどね。
【年齢によるミュージシャンとしての変化】
ガイド:これまで50年以上音楽をやってこられて、ミュージシャンとして自分自身の変化を感じることはありますか?森本:20歳頃、タイガースの頃にやっていた曲ってその年代でないと似合わないものがあるじゃないですか。それをどうやったら観る人が納得するようにステージで演奏できるかって考え続けています。
年齢なりの渋さとか深みを、どうすれば原曲の持ち味を損なわずに加えていけるか……そこが僕のテーマですね。
ガイド:若い頃にヒット曲を持った方が共通して悩まれることですね。
森本:そうですね。少しずつ今の自分の要素を加えていかないとモノマネになっちゃうでしょう。
だから沢田研二の歌を聴いていると、昔よりも今歌っているほうがもっといいように感じたりするんです。
ガイド:沢田さんの発声は時期によって大きく変わっていきますよね。
森本:そうだね。今ある自分の魅力や方向性を加えていくことがとても大事だと思いますよ。
日本一を夢見た頃 ファニーズ時代
ガイド:1965年にサリーとプレイボーイズから始まり、沢田さんが加入してファニーズになり……その時代のことから現在にいたるまで順に思い出をお聞きしたいと思います。
森本:そうだね……初めプレイボーイズだったのが沢田を入れてファニーズなった時点でみんな「プロになろう」という決心をしたんですよ。そのためにはどこかプロダクションに所属しなくてはいけないと思ったんですね。でも当時はその方法がとても限られていたので、ひとまずプロの目に留まるジャズ喫茶に出演しようと……それで大阪のナンバ一番のオーディションに応募したんです。それも初めは落ちちゃったんだけど、出演バンドに穴が開いたらしくて運よく出られることになった。
ガイド:当時は自分たちのステージングに自信はありましたか?
森本:自信なんてありませんでしたよ。でも出たその日からファンがついてびっくりしました。
ガイド:大阪時代に一番交流が深かったのはやはりリンド&リンダースですか?
森本:そうですよね。リーダーの加藤ヒロシさん以外は元々、京都のクールビーツと言うバンドなんです。高木さん(高木和来。ザ・リンド&リンダースを経てザ・サニー・ファイブ結成)という人がリーダーだったけど、それを加藤さんが引っ張ってきてリンドになった。
ガイド:榊テルオ(ザ・リンド&リンダース)さんからは「田園(京都のダンス喫茶)でよく会った気がする」と聞いています。
森本:そうだね。田園で沢田研二のバンドとクールビーツは対バンしていたと思います。そこによく僕たちが踊りに行っていたんです。リンドのメンバーとはそれ以来の縁ですね。
その後、ナンバ一番に出る日数が増えてきて、どこか合宿所を探さなくてはいけなくなった時も宇野山さん(ザ・リンド&リンダース)……うーにゃんが「自分の向かいの部屋が空いてるよ」と明月荘を紹介してくれたんです。
ガイド:ナンバ一番に出演するようになってじきに人気ナンバー1になり、半年ちょっとで渡辺プロとの契約が決まりますね。現代でもなかなかないくらいの驚異的なスピードだと思います。
森本:あの頃のことってあまり実感が残ってないんだよね。半年と言われれば「そんなに短かったのかな」と思います。ファンクラブが三つも出来ていたみたいだし、上条英男さん、スパイダクション(現・田辺エージェンシー)、内田裕也さんと立て続けにスカウトに来てくれるし、すごくめまぐるしい変化だったのかな。
デビュー曲にびっくり?ザ・タイガースのデビュー
ガイド:東京でデビューされてから自分で「ブレイクしたな」と思われたのはいつ頃ですか?森本:やっぱり『シーサイド・バウンド』からだよね。行くところ行くところで僕たちが経験したことないくらいお客さんがたくさん来てね……それから日劇ウエスタンカーニバルに出ても日に日に歓声が大きくなってくるのを感じてました。
初日は「なんや、このバンド?」くらいだったのが楽日(千秋楽)には楽屋の外に何十人も女の子が並ぶようになったしね。そんなことを覚えてますね。
ガイド:『シーサイド・バウンド』以降、レコードを出すたびに大ヒットするようになりましたが、当時は「次も売れるな」というような確信はありましたか?
森本:曲を聴いて「これは売れそうだな」というのはありましたね。デビューの『僕のマリー』の時は全然そう思えなかったけどね。
ガイド:確かに『僕のマリー』は歌謡曲的というか、あまりにファニーズ時代の方向性と違いますよね。
森本:あれはちょっとびっくりしたもんね。どちらかと言うと否定的だった。それまで僕たちはロックバンドで、ストーンズ、アニマルズ、ビートルズとか洋楽のコピーしかやってなかったんですよ。デビュー曲もかっこいいロックに違いないと思ってるところにあれが来たもんだから(笑)
二作目の『シーサイド・バウンド』も初めは「変なメロディーだな」って感じたけど結局売れたもんね。僕たちが考えることとプロデューサーや専門家の考えることは違うんだなぁって思いましたよ。
作詞家、作曲家としての芽生え 『青い鳥』
ガイド:事務所やレコード会社の意見が先行する部分が大きい中でしたが、ブレイク中の1968年には太郎さんが作詞作曲した『青い鳥』がシングルカットされますね。やっぱり売れたらある程度、好きなことが出来る環境もあったんでしょうか?森本:もちろんそれはあるけど、100%好きにできるわけじゃないからね。
『青い鳥』の場合はアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』を作る時にマネージャーから初めて「曲を作ったらどうだ?」って言われたんですよ。初めは「出来ません」って断ったんだけど「やるだけやってみたら?できなかったらそれでいいから」って言われてチャレンジしたんです。
ガイド:あの曲はどんな過程で作ったか覚えておられますか?
森本:曲が先にできましたね。あの頃、サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』が流行ってたんですけど、あんな感じでメロディーがずっと三度でハモっている曲が作りたいなと思ったんです。
ガイド:そう言われればたしかに共通する雰囲気がありますね。
そこにあの若者らしい歌詞が乗るととてもマッチして独特の世界観が生まれていると思います。
森本:不思議なことなんだけど、実はすでにファニーズ時代にファンの人に『青い鳥』っていうタイトルで色紙に詩を書いて送っていたらしいんだよ。「僕はこれから作詞もやろうと思っている」って言って渡したんだって。
ガイド:それは全然覚えていなかったんですか?
森本:うん、後になって聞いたんです。内容も歌詞のものとは少し違う内容だったけど、そう言えば「青い鳥~♪」っていうフレーズだけは以前からよく口ずさんでいた気もしますしね。曲先でも一部だけは歌詞と一緒にでき上がってることってあるじゃないですか。
ガイド:ずっと気に入って頭に中に残っていたフレーズが初めてオリジナル曲を作るときに自然に出てきたのかもしれないですね。
結果的に『青い鳥』はオリコン4位、売上では前作の『廃墟の鳩』を超える大ヒットになるわけですが、「これからもずっと自分が曲を書いたほうがいいな」とは思われなかったですか?
森本:嬉しかったけど当時はそんなこと思う余裕がなかったですよ(笑)
ザ・タイガース時代 嫌だったこと
ガイド:ザ・タイガースでデビューしてからの4年間、いろいろ問題があったと思いますが中でも嫌だったことは何でしょうか。森本:嫌だったこと、しんどかったことはまずスケジュールだよね。僕たちまだ若かったから、睡眠時間が少ないのは本当につらかった。
あとはメンバーとの確執だね。元々は純粋な遊び友達だったのが少しずつ意見の違いや利害関係が出てくるから……一緒に仕事していても楽しくなくなってくるんだよ。
ガイド:バンドの宿命みたいに言われることですが、ザ・タイガースの場合はあまりに成功までのスピードが速すぎたので、その分いろんな精神的な負担があったのかもしれませんね。
森本:バンドを始めた頃はみんな「日本一になろう」って共通した目標があったからよかったんだけど、実際にそれをかなえてしまうと少しずつバラバラになってしまったんだね。お互いに考えてることがわからなくなって疑心暗鬼になる部分もあったかもしれない。結局、ピー(瞳みのる)は芸能界自体が嫌になって業界を去ってしまったし……いろんな悲しいことがあったね。
自分がリーダーに アルファベッツ、スーパースター時代
ガイド:1971年にタイガースが解散してからはタローとアルファベッツ、1973年からは森本タローとスーパースターで活動されるわけですが、これはそれぞれどんなテーマで結成されたんでしょうか?森本:どちらも僕がリーダーとしてメンバーを集めたバンドなんです。オーディションしたりしてね。
自分の音楽性自体はタイガース時代と大きな変化はなかったけど、自分のやりたいことをできたという意味では貴重な経験だったね。これまでと違って、全部自分が考えて決めていかなくてはいけないから……メンバーがまだ若くて経験が少なかったし、相談できなくて孤独な気持ちになったこともありますけどね。
ガイド:活動の反響はいかがしたか?
森本:グループサウンズ的な音楽がどんどん下火になっていく時代だったから、結局タローとアルファベッツは維持していくことが難しくなってしまった。
スーパースターでは少し方向性を変えて平尾昌晃さんに『望郷の旅』(朝日放送『助け人走る』主題歌)を提供してもらったりしたんだけどね……バンド編成なのは一緒だから結局は同じような活動になってしまうわけですよ。それで行き詰って、1975年頃には活動を休止してしまいました。
経験を活かし音楽プロデューサーに 芸映時代
ガイド:スーパースターが休止してからは芸映に社員として入社されるわけですが、この時期はどのような配分で活動をされていたんでしょうか?森本:芸映時代は音楽プロデューサー、作曲家としての活動がメインだね。派手な芸能活動はやっていないけど、お給料もらいながら音楽制作の仕事はアルバイトでやらせてもらってました。
ガイド:音楽プロデューサーをするイメージは以前から持っておられましたか?
森本:タイガース時代からライブでやる曲の選曲、振り付けを担当してたし、アルファベッツ以降はディレクターも担当してレコーディングやミキシングを指示してましたからね。"プロデュース"も一概には言えないけど、クリエイティブな方面での業務についてはだいたいわかっていました。
ガイド:自分の経験を活かすことができたわけですね。
芸映で一番初めに関わられたのは西城秀樹さんですか?
森本:そうですね、秀樹は早かったです。それから岩崎宏美、しばらくして岸本加世子とか河合奈保子とかね。
ガイド:そう言えば秀樹さんは上条英男さんがスカウトして芸映に連れてこられた方ですが、上条さんと太郎さんはこの時期もつながりってあったんでしょうか?
森本:上条さんとはずっとつながりあったよ。上条さんは僕がタイガース時代に住んでた目黒ハイツの向かいのマンションに住んでたんだよ。そこでデビュー前の秀樹も住み込みしてたみたいだね。
ガイド:そんなに近くにおられたんですね!
森本:オフにはよく麻雀したね。ファニーズ時代にあの人は沢田、岸部、僕の三人だけスカウトしようとして断られてるもんだから「あの時、5人まとめてスカウトしておけばよかった」っていつも悔しがるんですよ(笑)
10年ロマンス ザ・タイガース同窓会
ガイド:音楽プロデューサーとして順調に活動されているさ中、1981年にタイガースの再結成話が持ち上がりますがこれにはどんないきさつがあったんでしょうか?森本:日劇が取り壊されることになって、最後のウェスタンカーニバルをすると企画があったんですよ。それで田辺昭知さんや内田裕也さんがいろんなグループサウンズのメンバーに声をかけてまわって、タイガースもそこに合流したんだね。
ガイド:それがきっかけになったわけですね。
森本:うん、解散して10周年できりがよかったし、(加橋)かつみも「これを機会にまたやりたいね」と言うしね。ピーは慶応高校に勤めてたしわだかまりもあったから参加しなかったんだけど、せめて"同窓会"という形で活動したいということになったんです。
ガイド:この同窓会期に太郎さんはふたたび『青い鳥』に並ぶ大ヒット曲を書かれることになりますね。
森本:そうですね。同窓会第一弾シングルで『十年ロマンス』を出した後、コーセーの口紅のCMソングの依頼があったんですよ。マネージャーの中井さんが阿久悠先生の歌詞を持って来てくれて僕と沢田とかつみに「競作だけど書いてみるか?」って。僕と沢田が書いてきて、たしかかつみは書けなかったのかな?
ガイド:それで太郎さんの曲が選ばれたわけですね。
森本:おかげさまで売れました(笑)
ザ・タイガース同窓会を経て独立
ガイド:1981年から1983年の同窓会期は毎年新曲をリリースしてコンサートにテレビ出演とかなりお忙しかったと思うのですが、芸映との仕事の兼ね合いは問題ありませんでしたか?森本:芸映にはタイガース同窓会にあたって「半年休ませてくれ」ってお願いしたんですよ。でも「他の社員の手前、そういうことはできない」ということだったので辞めました。
ガイド:大きな決断ですね。
森本:他のメンバーがやる気になってるのに僕だけやらないわけにいかないよ (笑)
ガイド:せっかくうまくいっているお仕事を辞めることに不安はありませんでしたか?
森本:まったくなかったね。「またこのメンバーとやれるな」と思うと楽しみばっかり。いつも一緒にいると離れたくなったけど、しばらく離れるとまた一緒にやりたくなる(笑)不思議なもんだね。
ガイド:同窓会は初めから期間限定の企画だったんでしょうか?
森本:そうだね。沢田自身もソロでヒット曲を飛ばしてる時期で多忙だったしね。『ザ・ベストテン』(TBS)なんか同時に沢田のソロでもタイガースでも出演したりしていたから、いつまでもそのペースでやるわけにもいかなかっただろうし。
それで、同窓会が終わった後は一回プロダクションを作りたいと思って独立したんです。
GSリバイバルの中心に タイガース・メモリアル・クラブ・バンド
ガイド:それからはまた表に出た音楽活動も活発になっていきますね。1988年には太郎さんが中心となってグループサウンズのスターが結集した『タイガース・メモリアル・クラブ・バンド』が始まりますが、これはどんないきさつでそうなったんでしょうか?
森本:その頃、いろんな人のライブに呼ばれて行くことがあったんだけど、かつてのスターが小さなライブハウスで細々やっているのを見ると残念に思ってね。
そこで「一人一人では難しくても、みんな集まれば面白いことが出来るかもしれない」とひらめいたのがタイガース・メモリアル・クラブ・バンドなんです。元マネージャーの中井さんも協力してくれてザ・タイガース、スパイダース、ワイルドワンズ、ブルーコメッツ、ゴールデンカップス……そうそうたるメンバーが参加するユニットになったよね。
ガイド:世間的にもグループサウンズがリバイバルする時期にうまく当たったのか……このユニットがあったからリバイバルしたのかわかりませんが大きな反響につながりましたね。
タイガースとしても一夜だけの再結成で1989年の『NHK紅白歌合戦』(NHK)に初出場されています。
森本:そうそう、これまではみんなライブハウスでやっていたのがホールになって(笑)地方に行ってもお客さんが詰めかけてすごく盛り上がりましたからね。
ガイド:かつてのファンの方たちも、そういう機会を待っていたのかもしれませんね。
森本:そうなんだろうね。結婚とか子育ての時期がひと段落して。
僕たちやる側も昔からの仲間と一緒にやれるのは楽しかった。グループサウンズの時代からみんなよく食事や飲みに行ったからね。
『Long Good-bye』を生んだTEA FOR THREE
ガイド:メモリアル・クラブ・バンドは1993年まで続いて、その後も岩本恭生さんや加橋さん、岸部シローさん達とザ・タイガースマニアをやられますね。そして1997年にはTEA FOR THREE。活動期間こそ短いですが音楽的にはグループサウンズとも少し違っていて、新しい流れに入られたのかなと感じます。
森本:初め、僕に『みんなのうた』(NHK)に流す曲の依頼が来たんですよ。シングルになった『君を真実に愛せなくては他の何も続けられない』のカップリングで『あなたが見える』という曲なんだけど。そこで沢田と岸部一徳に相談したら三人でやろうということになったのがTEA FOR THREEだね。
一曲やるだけじゃつまらないからレギュラーでラジオ番組を持ったり、あと実現はしなかったけどライブやアルバムを作る計画もあったんですよ。実はあの『Long Good-bye』も歌詞の原型はこの時期にできていたんです。
ガイド:そうだったんですね。瞳みのるさんに向けたメッセージソングだから2010年の『J.S.T. ROCK'N'ROLL』(森本太郎とスーパースター再結成後初のミニアルバム)収録用に作られたとばかり思ってました。
森本:1999年にスーパースターを再結成してしばらくしてから、なにかライブ用にいい曲はないかと探していたら岸部一徳の書いた歌詞が出てきてね。ピーのことを書いてるんだってことはすぐにわかったけど3番だけ少し違う気がしたから、沢田に書き直してもらったんです。そして僕が曲をつけた。2004年頃には今の形ができていましたね。
ガイド:その時期にすでに太郎さんの中でも瞳さんに対する熱い想いがわきあがってきていたんですか?
森本:いや、それはなかった。もちろん岸部一徳はあったんでしょうけど。でも、歌詞を読んでるうちに僕も少しずつ……ね。
銀座TACTで僕は毎月ライブを続けているんだけど、毎年1月24日のタイガース解散記念日に合わせてのライブの時にだけ披露する曲として『Long Good-bye』をやり続けていました。
そして『J.S.T. ROCK'N'ROLL』はタイガースのことをテーマにしたアルバムだったから、そこに収録したわけです。
瞳みのるとの再会
ガイド:『Long Good-bye』が後の瞳みのるさん復帰やタイガース再結成につながるという予感はありましたか?森本:思ってもいなかったね。でも中井さんが「タイガースをメンバー全員で再結成させたい」という強い想いがあって、このアルバムを渡しに行ったみたいだね。
慶応高校の文化祭みたいな催しに足を運んで、ピーがいなかったから生徒さんに名刺を渡したら電話がかかってきたんだったかな。それから会ってやっと渡せたらしいよ。
ガイド:その時の瞳さんの反応はどうだったか聞かれてますか?
森本:「今でも僕のことを思っていてくれるなんて知らなかった。一度会ってみたい。」って言ってくれたらしいよ。それで38年ぶりに会うことになったんだね。かつみ、シローは来れなかったから4人でね。
ガイド:数十年ぶりに会う印象はいかがでしたか?
森本:長いこと学校の先生をしてたせいか、芸能人的な雰囲気は無かったなぁ。"立派な社会人"という感じ。
でも最初はお互いに緊張してたけど、すぐ昔に戻ったよね。1時間も話してるうちにすっかり20歳頃のあの感じに戻った……早かったな。
またある?ザ・タイガース再結成
ガイド:2013年のザ・タイガース再結成はドームツアーで全国をまわられ大反響を呼びましたね。森本:そうですね、グループサウンズの時期でもないくらい大勢のお客さんが来てくれましたね。亡くなった中井さんの想いにも応えることができたし、本当に良かったと思います。
ガイド:CDもクリスマス曲カバーの『THE TIGERSのWHITE CHRISTMAS』がリリースされたので「新曲も出るのかな?」と期待していたファンの方は多いようですが結局それはありませんでしたね。
森本:新曲を出すとなると大きな労力になるからね。時間的に無理だろうということになったんだね。
ガイド:みなさんのスケジュール的に難しかったんですね。
森本:うん。新曲を出すとなると「演奏も自分たちで」となるだろうし、そこまでやると本当に大変な時間がかかると思うしね。特に誰からもそういう意見はなかったね。
ガイド:今後もまた再結成はあると思われますか?
森本:なにか大きなきっかけや依頼がないとみんなやらないでしょうね……これまでみたいにただコンサートをやるような再結成はないと思うな。
次回作はロックンロール? 森本太郎とスーパースター
ガイド:近年は『森本太郎とスーパースター』としての活動に専念しておられますが新曲リリースは考えておられますか?森本:今は考えて無いなぁ。曲を作ろうっていう意欲があんまりわいてないんだね。
ガイド:普段から曲を書き溜めたりされるタイプではないんですね。
森本:僕はそうだね。職業作曲家みたいに依頼があればいつでも書けるような器用なタイプではないので……書きたくなったタイミングでないといい曲は絶対にできないね。
ガイド:太郎さんが創作意欲のわくタイミングってどんな時が多いんでしょうか?
森本:その時によってシチュエーションはバラバラだけどね……たとえばスナックに行って仲間と60年代や70年代のロックを歌っていると「こんなの作りたいなぁ」って閃いたりね。
そう言えば去年のことだけど「ロックンロールのアルバムが作りたいなぁ」って思ったことはあったな。
ガイド:シンプルな曲をされたいと?
森本:いや、オールディーズ的な匂いという意味でね。『おお!キャロル』とか『ダイアナ』ほど単純でも困るけど、みんなが楽しく踊れるようなアルバムを作りたいとは思ったね。シャッフルからミディアム、バラードまでいろんなタイプのロックンロールをね。
ガイド:もしかしたらそういうアルバムが近々に発表されるかもしれませんね。
森本:いやいやいや!(笑)
まぁ10曲とかはしんどいけど6曲くらいのアルバムならパッとできるかもしれないね。
2016年11月19日 自分らしい70歳記念ライブを
ガイド:今からアルバムのご準備は難しいと思いますが、ひとまず11月19日にはラゾーナ川崎プラザソルで『70TH BIRTHDAY LIVE~My Memories in My Life』が開催されますね。 大きな記念イベントになると思いますが、このライブはどんなテーマがあるのでしょうか?森本:テーマは"My Memories in My Life"の部分ですね。「僕の人生の思い出」ということで総決算でも集大成でもなく肩ひじ張らない感じにしたいんです。
僕のライブは全部が音楽コンサートにならないことが多いんですよ。以前も阿川佐和子さんを呼んで、彼女の番組に僕がゲスト出演するという体のコーナーを作ったりしてね。今回は何をするのかまだ全然決まってないけど(笑)
ガイド:何か面白いものにしたいわけですね。
森本:そうですね。音楽だけで真面目なことよりもバラエティの要素を入れて、観る人に楽しんでもらいたいなと思います。僕らしくね。
人と会いたい オフの過ごし方
ガイド:太郎さんはオフはどんな過ごし方をされることが多いですか?森本:僕はたいがい人と会ってますね。友達とか仕事の仲間、先輩だとか。お店をやってる人も多いからよくお酒を飲んでますよね。
ガイド:飲んだらどんなお話をされるんでしょうか?
森本:年齢のせいかかなり懐古的になってきててね……今がどうこうって言うより昔話のほうが楽しいのよ(笑)昔の業界の打ち明け話とか、びっくりするような話もあるしね。
ザ・ジャガーズの宮崎こういちさんと仲良かったんだけど、生前に三軒茶屋で居酒屋さんをやっててね……「田辺昭知さんからスパイダースに入れって誘われてた」とか「デビュー前の井上順がうちにずっと居候してた」とか当時では知りようもなかった話をいろいろ教えてくれるんですよ。
ガイド:確かにそれは貴重な話ですよね。2014年にお亡くなりになったんでしたっけ……残念ですが。
逆に同年輩の方と将来のことを話し合うようなことってありますか?
森本:そりゃ未来のことも考えるけど……そもそも未来があるかどうかわからないし(笑)
ガイド:いえいえ、あと20年はがんばっていただきたいですけど!
森本:えーっ!20年はないよ!
でも考えたらさっき話したように加山さんやかまやつさんはもうすぐ80歳でバリバリに元気だしね。ああいう先輩がいる限り自分も負けてはいられないとは思うかな。
ガイド:そのためにも人と会って楽しく過ごすことは大切な時間なんでしょうね。健康法も兼ねているのかもしれません。
人生を見つめる『タローの日記』
ガイド:太郎さんはファニーズ、タイガース時代に『タローの日記』を書かれていて、今からすると当時を知る上でとても貴重な記録になっているわけですが、最近も日記は書かれますか?森本:書かないなぁ……日記は若い頃に書く方がいいよね。今書いたら寂しい内容になるだろうなぁ……「朝起きた。今日も生きてた。」とか(笑)
ガイド:(笑)
昔のほうが筆まめだったんでしょうか?
森本:筆まめというよりは全然違う目的があったんだよ。僕は字が汚いから、それを少しでも練習して直したいなと思ってあの時期、日記を書いてたんだね。
でもあれがあったから嬉しかったことも、嫌なこともある程度正確に覚えていることができたんだな。タイガースが解散してからもいろいろあったけど、あの日記を読み返すと、当時から人生なかなか順風満帆にはいかなかったんだって思い知るね。
ガイド:若くしてスターになり、70年生きてこられたからこその重みを感じます。
今、日記を書かれていない分、少しでも僕が太郎さんの人生や想いを書き留めて後世に残していきたいと思います。
森本:お願いします。
※このインタビューは森本太郎さん個人の意見、感想を聞き取ったものであり、ザ・タイガースなど関係者を代表するものではありません。
※カメラ撮影 増井佑哉