不妊症

不妊治療と胎児診断…古賀文敏ウイメンズクリニック

今回は不妊治療から胎児診断、妊婦健診、産後の育児支援までを一貫してフォローする体制を持つ、福岡・天神の古賀文敏ウイメンズクリニックを取材してまいりました。有名な老舗クリニックがひしめく福岡で、こちらの不妊治療クリニックが急成長している理由とは? さまざまな試行錯誤と工夫があるようです。

執筆者:池上 文尋

今回は「今、福岡で急成長しているクリニックがあるので取材してみては?」という情報をあるドクターから頂き、福岡天神の古賀文敏ウイメンズクリニックへ取材に行ってまいりました。

福岡というと有名な老舗クリニックがひしめく場所でもあるので、「そこで急成長しているとは、どういうことなんだろう?」と個人的にも興味津々の取材でした。

古賀文敏ウイメンズクリニックのさまざまな試行錯誤と工夫について、伺ってきました。

それでは、インタビューをどうぞ!

Q.先生が産婦人科を選んだきっかけを教えて下さい

koga

院長の古賀先生です。

もともと新生児医療に惹かれていました。学生時代は、聖マリア病院の橋本先生を訪ねて研修に行ったりしていました。そのため小児科か産婦人科で迷いましたが、いろんな縁が繋がって、産婦人科を選びました。久留米大学産婦人に入局も聖マリア病院新生児NICUで研修することができるためでした。

産婦人科医になろうと思ったきっかけのひとつは、新生児を知ろうと久留米にある聖マリア病院の新生児科を目指していたことにあります。NICU勤務の時は、ほとんど病院に合宿のような感じで、小さな赤ちゃんと一緒に暮らしていました。当時、日本一大きな新生児センターでの毎日の生活は本当に大変でしたが、念願の新生児医療だったので、充実した日々でした。

と同時に、不妊治療の末、やっと生まれた赤ちゃんが小さく生まれてしまったことに自責の念にかられている母親もみてきました。必死で少しばかりの母乳を凍結して、持参され、保育器越しに触れる小さな赤ちゃんの指に願いを込められていた表情は今でもくっきり残っています。

Q. 生殖医療に関わるようになったのは、いつ頃からですか?

国立小倉病院で研修医として勤務していた頃、ちょうど国立病院は淘汰を受ける時代へ突入していました。大きいところは医療センターへ、そしてがんに特化するがんセンターへと変遷していく中、小倉病院はどのように生き残っていくのか。その対策に、私の産婦人科部長の小田高明先生が関わっていらっしゃいました。

koga

クリニック名とロゴになります。

そのとき、小田先生が提案されたのが、周産期だけではなく不妊治療から行う成育センターの創設です。東京の成育医療センターができる前で、厚労省はこの提案に賛成し、実現する運びとなりました。

小田先生の婦人科癌治療を求めて、遠方から患者さんが殺到していましたが、先生は生殖医療にも造詣が深かったという、かなり特別な存在でした。セントマザー医院の田中温先生とも小さい時から親交があったこともあり、この分野でもライバル視され(笑)、あそこに負けないよう、成育センターを立ち上げることを目標にされていました。

ここで生殖医療部門の立ち上げに私を呼んでいただきました。その時は、まだ医師になって2年目でした。先生の生殖医療への熱い想いと私への期待を感じて、本当にうれしかったですね。それからは、休日は全国の施設見学やありとあらゆる生殖関係の学会・セミナーに参加しました。

もちろん自費でしたので、給料のほとんどを勉強に使いましたが、レジデント3年目なのに特別に職員枠で採用していただきましたし、日々の食事は先輩の先生方にごちそうになってばかりでしたので、困ることはなかったですね。それより小倉病院の通院されている患者さんの成否が私にかかっているとの責任から、普段は引っ込み思案の性格なのに、全国の有名な先生のところに飛び込み、親身になって教えていただきました。

特に夏休みを利用して、獨協医大の正岡薫先生に研修させてもらえたことは幸せでした。当時でも妊娠率40%の成績を出されていましたが、四六時中先生の後ろをついて回って、排卵誘発の考え方、採卵や培養、顕微授精、胚移植とあらゆることを指導していただきました。

koga

受付カウンターです。

また日本の生殖医療のリーダー的存在である鈴木秋悦先生にも、直接的なつながりがないにも関わらず、多分私のひたむきさだけに惹かれて、いえ困ってしまわれて(笑)、色々指導していただきました。私のメンター的存在です。そして鈴木先生の神通力で、全国の先生方から教えを請うことができました。

医学部学生時代は、どう生きていいかわからず、模索していましたが、大事な局面で貴重な出会いがあり、恩師に育てられたと思っています。先生方からいただいたお手紙は今でも大事にしています。


Q.最初に福岡の大名で開業された経緯について教えてください

不妊治療に通われている患者さんにとってストレスがない施設とは?というテーマをずっと探ってきました。最初は緑に囲まれた環境のなかではじめから建物を作ることを考えていました。今までの不妊施設がシティホテルなら、私は離れのある湯布院の玉ノ湯のような温泉宿をイメージしました。

ただ土地からというとなかなか考えていたものに出会えません。テナントまで範囲を広げ、今までの勤務地だった小倉や久留米を中心に探しましたが、なかなか理想とする物件に出会えませんでした。物件がなかなか決まらない中、鳥栖にあるプレミアムアウトレット隣の空いている広い土地を候補として、九大の建築学教授のもとで実際に設計まで進めていたのですが、やはり交通面を考慮し、結果的にはそこでの開業を思いとどまることになったのです。

koga

体外受精用の安静室です。

さらに、競合が多く、土地勘のない福岡まで範囲を広げて物件探しを続けていく中、福岡の大名にあるサウスサイドテラスという物件に出会いました。「ビルのなかに通りを!」という商業ビルには、1階にアロマのニールズヤードが入っていたり、アダム・エ・ロペ、2階にはモデルの蛯原さんがカットしていたという大人気の美容院が入居していました。天井までの吹き抜けで開放的な空間と通うことが楽しくなるようなテナント構成に惹かれて、1年半場所探しに翻弄されていたのが嘘のように即決していました。

ビルテナントでは全国でも珍しく、採卵や胚移植の際に使っていただく安静室には個室を用意していました。

こだわりの理由は、病院勤務をしていた時代に遡ります。

そこでは個室が満床という状況のなか、代わりに陣痛室とカーテン1枚で仕切られた部屋で過ごしてもらうこともあり、ときには流産後で落ち込んでいる中、カーテンの向こうでは出産の歓声が聞こえるということもありました。いたたまれず小さくなった女性の手をしっかりと握っておられるご主人。足早に帰られるご夫婦の後ろ姿を見ながら、不妊治療をつらくしているものは、この環境も大きいと実感していました。

やっぱりあの頃は、皆さん大変でした。外来時間も午前中だけでしたし、待ち時間も2~3時間ありました。外待合で誰にも会わないようにひっそりと、帽子を深くかぶった方もおられましたね。
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