史上最年少三冠王者となった宮原健斗
最年少三冠王者記録を更新!
「全日本プロレスは歴史のある団体だけど、昔の輝きを取り戻そうとは思っていない。俺らの世代で新しい輝きを作っていきます」と語ったのは2月12日、東京・後楽園ホールでゼウスとの三冠ヘビー級王座決定戦に勝利して第55代王者になった宮原健斗。三冠ヘビー級王座は力道山が1958年8月にアメリカから持ち帰ったインターナショナル、アントニオ猪木が71年3月にアメリカから持ち帰ったUN、ジャイアント馬場が力道山家から寄贈されたチャンピオンベルトを世界の強豪と争って73年2月に初代王者になったPWFの3大王座を89年4月にジャンボ鶴田が統一して初代王者になった由緒あるタイトルです。
これまで最年少戴冠記録は、日本人では三沢光晴の30歳2ヵ月、外国人ではテリー・ゴディの29歳2ヵ月でしたが、宮原はそれを更新して26歳11ヵ月での戴冠(1989年2月27日生まれ)。しかも史上初の平成生まれのチャンピオンになったのです。
健介&北斗の愛弟子としてスタートしたが悪党修行も
宮原は高校の卒業式3日後の07年3月4日、福岡県博多から上京して佐々木健介&北斗晶の健介オフィスに入門しました。健介と北斗を合わせたような「健斗」という名前はリングネームではなく本名です。健介オフィスに入門したのは運命かもしれません。しかし、すんなりと入門できたわけではありませんでした。初めての入門テストは足の屈伸運動のヒンズースクワットの時点で足がガクガクになって何もメニューをこなせずに不合格。再チャレンジでは何とかメニューはこなせましたが、それでも基礎体力がないということで健介の採点は不合格でした。それでも合宿所入りを許されたのは、健介と北斗が18歳の若さと186センチの長身に将来性を感じたからです。プロレス界で最も厳しいと言われていた健介オフィスの地獄のトレーニングで鍛え上げられて逞しくなった宮原は、約1年後の08年2月11日、後楽園ホールの健介オフィス興行の第1試合で1年先輩の全日本(当時=現在はフリー)の真田聖也の胸を借りてデビュー。逆エビ固めに敗れましたが、しなやかな体は関係者、ファンの目に留まりました。
当時の健介オフィスの選手は他団体に参戦するのが基本だったため、宮原はデビュー早々にプロレスリング・ノアのリングに上がってノアの若手選手との対抗戦に突入。そのなかで現在のノアのエースの丸藤正道に素質を買われ、デビュー半年後の08年6月には団体の枠を越えて丸藤のパートナーに抜擢されて『日テレ杯争奪ジュニア・ヘビー級タッグリーグ戦』に出場しています。
デビュー5年を迎えた13年2月には「いつまでも家族ごっこをしている暇はない。5年経って、これから自分で決めていかなきゃいけない」と健介に反旗を翻してフリーの悪党集団ブードゥー・マーダーズに加入。敢えて悪党修行することで「健介の弟子」という殻を破ってプロレスの幅を広げました。
やがて新人時代に少しだけ上がった全日本プロレスにターゲットを定め、同年9月にDIAMOND RING(健介オフィスから改称)を退団。DIAMOND RINGラストマッチとなった8月31日の後楽園ホールでは6人タッグマッチで師匠・健介と闘った末に「前に出て闘え、このリングで!」とエールを送られ、深々と頭を下げました。そしてブードゥー・マーダーズを離脱して単身で全日本に乗り込んで秋山準、諏訪魔らにアタックしていきました。